聖の青春 (角川文庫)

著者 :
  • KADOKAWA (2015年6月20日発売)
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久々の再読。何度読んでも胸が熱くなるが、今回はとりわけしみた。昨日、ずいぶん前から一度行きたいと思い続けていた前田アパート(村山九段が長く住んだ古アパート)を思い切って訪ねたところ、ありがたいことに部屋の中まで見せてもらえたのだ。村山青年が将棋と、また自分の運命と格闘した場所。言葉にしようがない感慨で胸がいっぱいになった。

村山九段が亡くなってから、すでに四半世紀。その部屋が以前のまま残され、好意で見せてもらうこともできることは、いくつか読んだもので知ってはいた。大阪在住なのだから、行こうと思えばすぐ行けるわけだが、そういうのに限ってなかなか行かない、というありがちな話。昨日は、将棋会館に立ち寄ったついでに、ふと訪ねてみる気になった。近くから見るだけでもいいや、将棋会館からアパートまでの道をたどってみようと、「聖の青春」に出てくるシンフォニーホール前の公園などを眺めつつ歩く(この師弟の場面は絶品)。女子校横の公園の向かい側に「三谷工業」の看板。ここだここだ。二階の一部屋の窓に映画の小さなポスターが見える。間違いない、あそこが村山青年の部屋だ。

しばらく立ち止まって眺めたり写真を撮ったりしていたら、三谷工業から人が出てきた。あれは!「聖の青春」で、歩けないほど弱った村山青年を、何度も車で将棋会館まで送ってくれたと書かれている「電気工事屋のおじさん」その人ではないの?思わず走って道を渡り、「迷惑かも」とひるむ心を叱咤して「三谷工業の方ですか?ここは村山九段が住まれていたアパートですよね」と声をかけると、その方は「そうですよ。中を見る?」と言ってくださったのだった。ああ嬉しい。

かなり急な階段を上がった先に、扉の開いた村山青年の四畳半があった。「これはこないだ森先生が来てくれた時の写真。ここにノートとかあるから。別にいつまでいてくれてもいいよ」と言葉少なにおじさんは階下に降りて行かれた。そのぶっきらぼうな感じがすごくあたたかかった。うまく言えないけど。思うにこの方は、道の向こうをウロウロしてるオバサン(私)を見つけて、声をかけやすいように外に出てきてくださったんだろう。帰りにお礼を言おうとしたら、忙しそうにお電話中だった。本当にありがとうございました。

部屋は古く、実に狭かった。ここに本やマンガを足の踏み場もないほど積みあげていたのか。流しもあった。少しゆるめた蛇口からポタポタ落ちる水の音で自分が生きていることを確かめた、あの流しだ。下半分が磨りガラスになった窓から公園が見える。きれいな黄色になった銀杏の葉がたくさん散っていた。

帰ってすぐ、「聖の青春」を読み返した。今の時代にはまずありえないような、尋常ならざる師弟の物語である。スマートさからは程遠い、泥臭さに満ちた人間群像に惹きつけられてやまない。村山青年を直接知ることのなかった多くの人が、「聖の青春」を通してその熱量の高い生き方にふれ、忘れがたく心にとどめる。思えば不思議なことだ。





余計なことを付け加えれば、映画版は原作とは全然別物だと思う。森先生と村山青年という唯一無二の師弟関係が原作の背骨なのに、映画は羽生さんとの物語に変えられている。わかりやすくはなるだろうし、観客も呼べるだろうけど、私はがっかりした。森先生をリリー・フランキーがやってたのに、まるで脇役でほんとうにもったいなかったです。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: ノンフィクション
感想投稿日 : 2023年11月29日
読了日 : 2023年11月29日
本棚登録日 : 2023年11月29日

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