外套・鼻 (岩波文庫 赤 605-3)

  • 岩波書店 (2006年2月16日発売)
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人間の広大無辺な運命というものを正確に描写するのが、小説家に与えられた究極の目標だったのだろうか?たとえばゲーテであったり、ユゴーであったり。だとすれば、この本に収められた短編2編は、それらの先行作家の作品とは同列にすべきではないのだろうか?

なぜこんなことを考えたのかと言えば、ゴーゴリの短編になにか異質なものを感じたから。
たとえば「外套」では、市井でも目立たず、うだつの上がらない男が主人公。神の啓示や精神的成長の軌跡などを見つけることは難しい。
さらに「鼻」なんか、グロテスクで超現実的な内容に終始している。教訓も見当たらなければ、人生を照らす光のようなものもない。

しかし私はそれだからと言って、この2編を低く評価するのは間違いだと漠然と感じた。なぜかと言うと、中国清代に民間伝承の怪異譚を集めて書かれ、日本の作家にも多大な影響を与えたという「聊斎志異(りょうさいしい)」を、ゴーゴリの短編から思い出したからだ。
https://booklog.jp/item/1/4001145073
聊斎志異では、庶民の日常生活のなかに自然な形で精霊や妖怪が姿を現す。また異形の者も多く登場する。だからもし聊斎志異の中で、亡霊が道行く者から外套を奪い取るという話があっても、鼻が服を着て街を歩くという話があっても、違和感はないだろう。

だとすれば、ゴーゴリは聊斎志異を読んでいたのだろうか?芥川のように翻案したのか?
でも冷静に考えれば、中国の読み物が1840年ごろにロシア語で翻訳出版されていたとは考えにくい。つまり、西洋社会が紙や羅針盤や火薬を発明したと思っていたら、同じものが中国大陸ですでに汎用化していたというのと同様だろう。だから現代の目から見てゴーゴリが先を越されているように見えるとしても、彼の創造力を過小評価するつもりはない。

一方でゴーゴリの作品は、一読したところでは諧謔的なストーリーとして印象に残るが、熟考するにつれて、ある考えが浮かんできた

――名を成す大人物であろうと、私たちと同じような名もなき一般人であろうと、運命に真正面から向き合おうとしたとき、自分の力では如何ともしがたい不条理なものに突き当たることがあり、そのおかしさや悲しさを正確に描写しようとするが故に、ゴーゴリはこのような異質な構成を発明せざるをえなかったのではないか。
つまり、ゴーゴリは先に出た中国文学の様式を下敷きにしたのではなく、あくまで自己の内発的なものによるのだと推測できる。

したがって、中国の作品とどちらが早かったかなどは、どうでもいい話だ。中国や日本では、庶民生活を凝視することで、怪奇現象の擬人化を極め、豊かな想像力によって抒情性と自然の恵みの賛美など、自分が“生かされている”と認識するしかない境地への到達を可能にした。
一方でゴーゴリは、路傍の石のように世間的には一顧だにされないロシアの庶民生活を、わざわざ拾い上げて手に取って角度を変えて眺め、石の模様が同じように見えながらも個が持つ美しさが浮かび上がる瞬間があるかのように、一見無骨に見えるものの中に存在する人間の本当の美しさを見いだしたのだろう。
そしてどちらもそれぞれの土地に根付き、文学的に花開いたのだ。
しかしながらゴーゴリの文学作品は、あのドストエフスキーを生み出す種となったと考えると、ロシアの大地と同様に、その広がりがうらやましくもある。

なお、ゴーゴリはポルタバ近郊生まれ。ポルタバは現在のウクライナにある。ウクライナ人とロシア人のどちらもが、自分たちを代表する作家としてゴーゴリを誇れる時代が早く来ることを願う。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 未設定
感想投稿日 : 2022年11月16日
読了日 : 2022年11月16日
本棚登録日 : 2022年11月16日

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