『まず考えさせられるのは、その時代が僕らにあたえる過剰が、どんなに過剰かってことだ』ー『海にあずけたチケット』
初めて「供述によるとペレイラは…」を読んだ時から、タブッキの小説は、文体や様式の違いはあっても、いつも同じ印象を自分に与える。それは、海で偶然拾ったボトルに封入された手紙を読んだら感じるであろう心持ち、とでも言ったらよいかも知れない。そのボトルの中身は、決して自分に宛てられた手紙ではない。けれど、特定の誰かに宛てられた手紙とも思えない。結局のところ、受け取る人のない手紙のようにも思える。そんなものを読むことの意味が有るのか、と問われると答えに窮する。
『人生は、気づかないうちに少しずついっぱいにふくれ上がるものだけれど、その腫れ物はちょっとでも余分になると、嚢胞や混沌と同じで、上限を超えれば、そうして詰めこまれたモノ、物体も記憶も物音も、夢もまどろみも、そのすべてがまったく無意味な集合体と化す』ー『川』
にも拘らず、誰に宛てたものでもないが、確かに誰かに託されたに違いない手紙の中で、ひどくしっくりとくる言葉に出会う。それは物語として立ち上がるものを情緒的に感じるということとは全く異質な経験。むしろ、どのような物語が表面的にせよ成立しているのかということなど、一切問われることを想定していない言葉の連なりを読んでいるというのに、物語の裏側に潜んでいる事情に直接心が奪われるような、そんな言葉に、自分個人の思いが見透かされたような言葉に、唐突に出会うのだ。
『ぼくの物語では、ひとつのことがもうひとつのことと噛み合わず、物語の一部分が別の部分とは噛み合わい。すべてがこんなふうなんだ。人生みたいに』ー『会いにいったけれどきみはいかった』
溢れる言葉の中を迷子のように、自分自身の身体が言葉の慣性力によって振り回されるのを感じて困惑し右往左往しながら、頭の中を空っぽにして、ニュートラルに心を保つことしか、タブッキの読み方の選択肢は許されていない、そう自分には思えてならない。それが果たして読書と呼べるのかどうかは分からないけれど、タブッキを読むことは特別なことだと、やはり思う。
- 感想投稿日 : 2014年1月18日
- 読了日 : -
- 本棚登録日 : 2014年1月18日
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