自閉症の僕が跳びはねる理由―会話のできない中学生がつづる内なる心

著者 :
  • エスコアール (2007年2月28日発売)
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僕が作者(東田直樹)のことを知ったのは『ビックイシュー』誌(日本版)の連載のコラムでした。

正確には彼の言葉に出会ったというべきかもしれません。
それは精神科医山登敬之との往復書簡という形でしたが、掲載される文章は毎回千文字に満たないものの、必ず僕の心に引っかかってくるフレーズがあって、心地よい消化不良というのは形容矛盾かも知れませんけど、なぜだか日常生活の中でふとしたタイミングで腑に落ちるというか、なるほどそういうことなのかという理解が訪れる、つまり彼の言葉には幸福な気づきの予感が埋め込まれているのだと思いました。

この本が書かれたのは養護学校の時(14歳頃?2007年)で彼は自閉度も重度と思われるカナータイプの少年でした。題名のように、突然、跳びはね、立ち上がって歩き回ったり、会話もままならない従来なら知的障害を伴った自閉症。にもかかわらず母親の献身により「パソコンおよび文字盤ポインティングにより、援助なしでのコミュニケーションが可能」になったそうです。
本書は質問に答える形で、自らの住む自閉症の世界が語られています。僕は以前、高機能自閉症やアスペルガー症候群の作家あるいは学者が書いた本をいくつか読んだことがあります。それらの大人の人たちの文章と比べてても彼の言葉は論理的かつ客観的で非常に高い知性を感じさせます。さらに詩的で感受性豊かで実際、本書の巻末には短篇小説『側にいるから』が納められています。それ以前にも彼は童話を創作し中学生以下の部門で大賞を取っています。
このような既存の自閉症スペクトラムに当てはまらない非常に稀有、まさに奇跡的な事例については専門家や自閉症の子を持つ親たち、施設関係者の中から懐疑的な声もあります。
多くの人が彼を知ることになる大反響のあったNHKのドキュメンタリー番組「君が僕の息子について教えてくれたこと」、僕は見ていませんが、自身自閉症の息子をもつアイルランド在住の作家デイヴィッド・ミッチェル氏による翻訳がきっかけで本書は20ヵ国以上出版されているそうです。
彼の言葉は希望として、自閉症の子どもをもつ、世界中の数多くの家族に届けられ救いとなっているのです。だとしたそれがフィクション(母親との共作=創作)であって何の不都合があるというのでしょう。僕が受け取った彼の言葉は真実であるのに間違いないのですから。
いくつか紹介したいと思います。

「僕たちが話を聞いて話を始めるまで、ものすごく時間がかかります。相手の言っていることが分からないからではありません。相手が話をしてくれて、自分が答えようとする時に、自分の言いたいことが頭の中から消えてしまうのです」
「僕たちは、自分の体さえ思い通りにならなくて、じっとしていることも、言われた通りに動くこともできず、まるで不良品のロボットを運転しているようなものです。いつも」
「自分の気持ちを相手に伝えられるということは、自分が人としてこの世界に存在していると自覚できることなのです。話させないということはどういうことなのかということを、自分に置き換えて考えてほしいのです」
「僕らが見ているものは、人の声なのです。声は見えるものではありませんが、僕らは全ての感覚器官を使って話を聞こうとするのです」
「体に触られるということは、自分でもコントロールできない体を他の人が扱うという、自分が自分で無くなる恐怖があります。そして、自分の心を見透かされてしまうかも知れないという不安があるのです」

 

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: ノンフィクション
感想投稿日 : 2015年5月10日
読了日 : 2015年5月4日
本棚登録日 : 2015年5月4日

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