わたしの渡世日記〈上〉 (新潮文庫)

著者 :
  • 新潮社 (2011年12月24日発売)
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感想 : 17

1924年、大正13年に生まれ、2010年の暮れに亡くなった高峰秀子自身が書いた半生記。文庫としては朝日、文春、新潮と3度目の刊行。おおもとは1975年の5月から翌年の5月まで「週刊朝日」に連載されたものである。

生まれた家族のこと、養女にもらわれることになったいきさつ、5歳で子役デビューするに至った偶然から、映画界で生きぬいてきた年月のことが書かれている。そうした経歴の概略は、「芸術新潮」の特集号や、高峰の養女となった斎藤明美の本などでも読んでいたが、この文庫で上下2巻になる「渡世」日記はまたすごかった。

13歳のころから、高峰秀子は無学コンプレックスに悩みはじめた。
▼同じ十三歳の女の子に比べて、自分は、なんと物知らずの人間なんだろう……。今でこそ「大学を出たってアホウもいるさ」などと、やけくそな啖呵の一つも切れるけれど、当時の私は純情だったから「小学校もロクに行っていない情けない奴」と、自分で自分をののしり、同じ年頃の娘に嫉妬した。(p.150)

高峰の無学コンプレックスは、ずっとずっと彼女のうちに居座ったものとみえるが、一方でその無学ゆえに、自分はこうなのかもしれないと書く。たとえば谷崎潤一郎や新村出(広辞苑の編者)とのつきあいについて。

▼私は無学のせいか、こわいもの知らずで、「偉い人」を恐れない。あちらがたまたま「偉い」だけで、こちらが「偉くない」だけで、人間であることに変わりはないからである。
 しかし、この言葉を不遜と取られては困る。はじめからそう思っていれば、背のびをする必要もなく、肩もこらないからというのがその理由だが、そうは言うものの、いくら私が図々しくてもやはり偉い人に会えばガックリと疲れて、ふだんはかかない大イビキをかいて寝たりするらしい。(p.176)

そして、大のデコちゃんファンであったという新村出に、谷崎夫妻の手引きで会ったあと、高峰秀子は谷崎にこんな手紙を出している。
▼…新村先生のようにはとうていなれないけど、どんな方の前に出ても背のびしたりちゞまつたりせず、自然にありのまゝの姿でぽかんとしていられる人間になりたい、というのが私たち夫婦の課題です。…(p.185)

下巻は、ポツダム宣言受諾の後、終戦からの年月が書かれる。戦後の映画界の話、高峰の青春時代の話にも興味はひかれたけれど、いちばん印象に残ったのは終戦直後のことを書いたここだ。

戦中に、高峰は「日本軍の兵士のために軍歌を歌い、士気を鼓舞し、一億玉砕と叫び、日本軍の食糧に養われていた」。食糧のみならず衣服も、民間では到底手に入らぬ立派なウールが日本陸軍から贈られていた。それが終戦から半年たらずで「今度は米軍の将兵のためにアメリカのポピュラーソングを歌い、PXのチョコレートやクッキーに食傷し」、アメリカ海軍から与えられた服地で仕立てたコートを羽織っていた。

つじつまの合わない「昨日までの自分」と「今日の自分」、20歳すぎの当時を振り返り、そのうしろめたさについて高峰はこう書いている。

▼私の歌った「同期の桜」で決意を固め、爆弾と共に散った若き将兵も何人かはあったはずだ。私がみせた涙で「生」への決別を誓った軍人もあったに違いない。あの日の涙は、何人かの人間を殺している。私は「アーニー・パイル」のステージに立ちながら、混乱するばかりであった。(pp.11-12)

アーニー・パイルは、米軍用に急遽改造された日比谷の東宝劇場である。

自身を率直に書いていく高峰の筆はかなりおもしろく、私はこの渡世日記の上下巻を読みながらずいぶん笑っていたらしい。この年に高峰は何歳…と数えながら、たとえば私は5歳のころに、13歳のころに、20歳すぎのころに、何を思い、どんなことをしていただろうと考えたりもした。

(上3/7了、下3/8了)

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 図書館で借りた
感想投稿日 : 2012年3月10日
読了日 : 2012年3月7日
本棚登録日 : 2012年3月7日

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