そして、メディアは日本を戦争に導いた

  • 東洋経済新報社 (2013年10月11日発売)
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父から「読むか」とまわってきた本を、返す前にメモ。約1年前(2013年10月)に一刷が出た本で、父が買った本は2014年2月の五刷。

半藤一利(1930年うまれ)と保阪正康(1939年うまれ)が、昭和史において「ジャーナリズムがいかなる事由があって健全さを失っていったか」(p.5、半藤「」はじめに」)、「言論の自由がどのような形で守られ、どのようにして真のジャーナリストが存立しうるのか」(p.220、保坂「おわりに」)を語りあったもの。

「はじめに」では、半藤が、自民党が2012年4月に発表した「日本国憲法改正草案」の中でも、第21条の条文に愕然となり、怒り心頭に発して、「それを報道しただけの新聞に罪はないのに、ビリビリ引き裂いてしまったほどとなった」(p.3)と、とにかくめちゃくちゃに怒っている。

自民党の草案では、現在の憲法とほぼ同じ文言の第21条1項(「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、保障する」 ※半藤は一言一句変わりはなくと書いているが、厳密には「これを保障する」の「これは」が自民党草案では削られている)に、第2項として許しがたい文言が付け加えられた。

それは、「前項の規定にかかわらず、公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社をすることは、認められない」というものである。

半藤は、この第2項が、いかに黙許しがたいものであるかについて、こう続けている。
▼実は、この「公益及び公の秩序」の文言は、草案の随所に出てくるのである。自民党草案の根本の狙いがここにあることがよくわかる。そして第21条の場合、自民党は言論の自由を制約したり取り締まったりするものでは決してなく、「差別報道、ネット上の中傷や名誉毀損」などが対象である、と麗々しく説明しているが、何をおっしゃるおサルさんなのである。この場合の「公益」「公の秩序」とは、いくらでも広げて解釈が可能である。要するに「権力者の利益」と同義であり、それに反するものは「認められない」すなわち罰せられる、弾圧されることになるのはもう明らか。そのことは昭和史にある歴史的事実が証明している。
 昭和改元から昭和20年8月までの昭和史の20年において、言論と出版の自由がいかにして強引に奪われてきたことか。それを知れば、権力を掌握するものがその権力を安泰にし強固にするために、拡大解釈がいくらでも可能な条項を織りこんだ法案をつくり、それによって民草[たみくさ]からさまざまな「自由」を巧みに奪ってきたことが、イヤになるほどよくわかる。権力者はいつの時代にも同じ手口を使うものなのである。(p.4)

メディアについての二人の対談のキモは、第一章の「戦争報道と商業主義」、第四章の「国家の宣伝要員という役割」だろう。とりわけ、新聞各紙が日露戦争で得た教訓「戦争に協力すると新聞は売れる」のところでは、「沈黙を余儀なくされたのではなく、商売のために軍部と一緒になって走ったんですよ」(p.50)と指摘する。

半藤が引く「戦争中の新聞の部数と伸び率」の資料がすごい。日ロ戦争前には賛成と反対で半々に分かれていた新聞各社が、平民社をのぞき、ついには全てが戦争に協力し、国家の宣伝役となった。その結果、新聞の部数は大幅に伸びた。

戦争前の明治36年(1903年) → 戦争が終わって2年目の明治40年(1907年)で比べると、
『大阪朝日新聞』 11万部 → 30万部
『東京朝日新聞』 7万3千部 → 20万部
『大阪毎日新聞』 9万2千部 → 27万部
『報知新聞』 8万3千部 →30万部
『都新聞』 4万5千部 → 9万5千部
と、軒並み、2倍、3倍の部数の伸びである。
このほか、
『万朝報』 10万部→8万部と落ちた後に転向して→25万部
『二六新報』 14万5千部 → 12万部と減少(ここは戦争に反対をしないものの余り協力はしなかった)
という数字があげられている。
そして、『平民新聞』だけが戦争反対で頑張ったが、発禁、発禁と弾圧を受け、ついには廃刊となった(『平民新聞』は日刊ではなく週刊で3000部と読む人も限られていた)。

ほとんどの新聞は、軍部の圧力に屈したのではなくて、部数拡大のため自ら戦争を煽ったのだ、そのことを忘れてはいけないと二人は語る。

もうひとつ、書いた者としてのジャーナリストの責任と、メディアの編集権のある者の責任の話のところ、テロや暴力に訴えてくる側はどこを責めたてて黙らせようとするのかに改めて気付く。「誰が書こうが関係ない、発表したお前たちが悪いんだ」(p.174)と問い詰めてくるのが普通だと半藤はいう。

▼半藤 …(略)…これも微妙なところなんだけれども、物書きが書いた文章の責任は、発表された後は物書き本院に問われないということもあります。例えば、作家の書いた文章が天皇家に対する不敬に当たったとしても、作家個人の責任にはされない。それをあえて発表した会社や編集人、発行人の問題になるんですよ。
 保坂 安寧秩序を破壊する、妨害するというのは、あくまでも文章を発表したからであって、ただ作家が書いただけでは罪には問われない。発表した媒体の責任になる。
 半藤 雑誌や本の場合、どうもそうみたいですね。
 ── 単行本の出版について名誉毀損で訴えられたことがありますが、そんな場合、著者と出版社の両方が訴えられましたね。
 半藤 近頃は原告が妙な奴だと著者も訴えますよ。ところが、一般的には著者は訴えません。編集人と発行人を訴えるんですよ。ということは会社、組織に圧力をかける。
 ── 会社は訴えられると、以降はその著者に仕事をお願いできない雰囲気になりますね。(p.175)

『信濃毎日新聞』の場合は、記事を書いた桐生悠々に責任が行ってしまった。桐生は、昭和の戦争に個人で抵抗したジャーナリストである。元々は朝日にいたそうだが、『信濃毎日新聞』の論説委員だったときに「関東防空大演習を嗤う」という記事を書き、松本連隊から抗議される。『信濃毎日』を経営していた小坂家は抵抗したが、不買運動などの圧力を受け、桐生悠々は1935年に自分から新聞社を辞め、郷里の名古屋に帰って『他山の石』という個人誌を出す。だがその雑誌も、特高の検閲でずたずたにされ、ほとんど何も書けない。

この桐生のことは半藤も保坂も繰り返し触れていて、保坂は「おわりに」でこう書いている。
▼昭和10年代にジャーナリストたりえたのは、日本社会でも桐生悠々をはじめとして石橋湛山などほんの少数ではなかったか、と私は考えている。
 …(略)…特高警察は、その桐生の執筆活動に常に弾圧を続け、少部数の『他山の石』さえもしばしば発禁処分にして、ジャーナリストとしての活動を封じた。
 桐生はどれほどの弾圧(それは経済的にも苦しいだけでなく、桐生の子弟たちもまたそれぞれの教育の場で弾圧を受けることでもあったようだが)を受けようとも屈しなかった。
 私はあえて、「この期間の日本に真のジャーナリストはごく少数しかいなかった」と分析するのだが、その折に、桐生悠々の存在を忘れてはいけないと思う。『他山の石』は、わずか400部程度の少部数のクオリティ雑誌であった。それに対して国家がどれほどの暴虐を加えて、この誌を弾圧したかを思えば、国家は、「社会的に筋の通った論」には異様なほど脅えることを知っておく必要もある。(pp.217-218)

桐生悠々が抵抗の言論人であったことは断片的に知っていたが、図書館の蔵書検索をするといくつか本もあり、ぜひ読みたいと思う。

(10/20了)

※自民党の「憲法改正草案」(2012年4月発表)
https://www.jimin.jp/policy/policy_topics/pdf/seisaku-109.pdf
現行憲法と草案の違いが非常に分かりやすく示されている

※自民党の「日本国憲法改正草案 Q&A(増補版)」
(2012年10月初版、2013年10月増補版)
https://www.jimin.jp/policy/pamphlet/pdf/kenpou_qa.pdf

※桐生悠々「関東防空大演習を嗤う」(青空文庫)
http://www.aozora.gr.jp/cards/000535/files/4621_15669.html

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 人に借りた
感想投稿日 : 2014年11月29日
読了日 : 2014年10月20日
本棚登録日 : 2014年10月20日

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