武術的立場 身体を通して時代を読む (文春文庫 う 19-8)

  • 文藝春秋 (2010年9月3日発売)
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感想 : 15

・人間の言うことって、たいてい矛盾をはらんでいるもので、その矛盾とどう向き合うか、どう考えるかといったことを教育の過程で教えないといけない。当然のことですが、世の中ではマニュアル的に「こういうときはこうしましょう」と教えられないことがたくさんありますからね。

・いまのスポーツコーチやトレーナーの人たちと私が大きく違う点は、今のコーチやトレーナーは、「これがいいですよ」と言ってフォームやトレーニングメニューを出すでしょう。でも私の場合は、稽古法は常に仮のもので、その稽古法自体さらに改良しなければならないと思っているということです。その結果として私にスランプはありません。つまり私にスランプがないのは、私自身、自分のやっていることを「いい」と思っていないからです。これは実感です。私ができることは、常に「まだまし」なことであって、決して「これがいい」とは思えないのです。今までやってきたことよりは効果的というだけです。

・そうなんですよ。本を読んで感じ取るものって、そこに書いてある「意味」だけじゃない。むしろ、長い期間にわたって読んだ人の中に残って、その人の骨肉に絡みこんでいくようなものって「フィジカル」なもの、ことばの「響き」というか「肌理」というか「手触り」というか、そういう「感覚的なもの」じゃないかと僕も思うんです。
それは僕がはじめてエマニュエル・レヴィナスの本を読んだ時に感じたことですけれど、レヴィナス先生の書くものはめちゃめちゃむずかしくて何が書いたあるのか、こっちにはまるでわからない。まるでわからないけれど、レヴィナス先生が「僕を読者に想定して書いている」ということだけははっきりと伝わってくる。
 そういうことって、ありますでしょ?どんなに平明な文章で、噛んで含めるように書いてあって、意味はよく理解できるんだけれども、「その文章の読者に自分は含まれていない」という感じがすることって。そういう時の言葉は全部耳を通り過ぎていってしまう。

・現代ではそういう理不尽なことがいっぱいある。国をあげて人間の経験による感覚というものを軽視して、なんでも数値化しようとして、その結果、昔では考えられなかった事故や事件に対して「人心が荒廃した」とかいっているわけです。自分たちが人間の感覚を軽視し、人間とは信じるに足りないものだ、という風潮をかそくさせているというバカなことをやっているのだということに気づかないんでしょうね。

・若い人たちの着こなしに、「ゆるゆるファッション」ってあるじゃないですか。ズボンをずり下げて、パンツみせて。あれはやってる本人はかなり気持ちが悪いと思うのです。そういう着方をするためにデザインされた服じゃないんですから。でも、気持ちが悪いけれどあえて裾をずるずるひきずって歩いているのは、自分の身体的不快を記号的に道具的に利用して、ある種の社会的メッセージ、不平なり居心地の悪さなり生きづらさなりを表現しているからだと思うんです。自分の身体がこの社会にうまく馴染んでいないということを、ああいうふうにアピールしているんじゃないかな。見苦しいし、本人にとってもかなり不快な身体運用をあえて行うことで社会的な不満を表現する。その「気分の悪さ」は他人にちゃんと伝わるから、その身体の記号的使用はそれなりに有効なわけですよね。「ああ、これで自分の言いたいことは伝わる」と思ったら、それが固着する。身体の自然な構造を壊して、奇妙なしぐさをしたら人々が自分の「生きづらさ」に気づいてくれた。だから、そういう身体運用からもう離れられない。

・先日、阪神淡路大震災10年目だったので久しぶりに震災の時のことを思い出しました。まず思い出したのは「そのときの記憶がない」ということです。僕はわりとクールで、天変地異に遭遇しても、あまり動じない方なんですが、地震の翌日、大学に行って自分の部屋を片付けた瞬間に記憶が止まっているんです。それから10日くらいの記憶がごそっと欠落している。たぶん、被災状況を見て、あまりのスケールの大きさに記憶が「仮死状態」になったんじゃないかと思うんです。こんなひどい状況、自分一人ではどうにもならない。うちの大学の被災は、結果的に復興までに50億円、三年半かかったくらいですから、20人や30人の教職員で同行できるような状態じゃなかったのです。それで、どうしたかというと、たぶん僕は被災状況の全体を見るのをやめてしまったんですね。とりあえず足元だけ見て、そこにある瓦礫やガラスのかけらを拾う。そういうことでしか身体が動かないんです。被害の全体を俯瞰すると、自分のやっている仕事が秩序を回復するまでの道程の何憶分の一にしかすぎないことがわかってしまう。それほど無意味な仕事は引き受けられないんですね。
無力感でへたりこんでしまう。だから、全体を見ることを停止してしまったんです。

・もちろん主観的には善意だと思うのですけれど、患者が治ることよりも治らないことからより多くの利益を得る職業であるということは自覚していた方がいいと思うのです。医者も同じですよね。医者は病人が治らないことからより多くの利益を得る。警察も同じで、犯罪者が増えることでその社会的有用性が高まる。どんな職業にも、自分が治癒し解決すべき問題が解決しないことからかえって利益を得るという側面があるんです。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
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感想投稿日 : 2017年1月2日
読了日 : 2017年1月2日
本棚登録日 : 2017年1月2日

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