哲学入門 (ちくま新書)

著者 :
  • 筑摩書房 (2014年3月5日発売)
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戸田山和久『哲学入門』ちくま新書.2014年

戸田山先生の本は三冊目だけど、これが一番おもしろかった。内容は哲学がいかに理系の人にも「たわごと」にならないかという点にあると思う、著者は「科学哲学」の人で、現代科学を正面から受けいれているので、話は壮大だが、ちゃんとわかるようになっている。著者の立場としては、唯物論的・発生的・自然的立場なのだが、「唯物論的」というのは、物と心の立場をわけないということである。「発生的」とは進化論をうけいれて原始的な生物から「意味」とか「道徳」がでてくるということで、「自然的」というのは、哲学も科学から反証されることをみとめるということである。また、哲学は「概念工学」であるともいう。こう書くとなんとも難しそうだが、文章じたいはユーモアもあって、たいへんよみやすい。そして、これは個人的な感想だが、著者の立場は案外、中国哲学に通じるところがあるんじゃないかと思う。まだ、ちょっとまとめられないが。

最初は「意味とは何か」という問題である。結論は「生存の目的をもつものだけが意味を理解する」ということだ。記号の操作だけをする会話ロボットや、人間の仕事を代行するロボットがどんなに精密でも、結局、「腹がへった」ということの「意味」はわからず、食堂に行くとか、食べ物をさがすということはできない。こういうレベルで「意味」を知ることができるのは、自分の生存の目的をもっているものだけなんである。

つぎに、この「意味」がどうやって自然の中から発生してくるのかという点が問題になる。「意味」は取り違えることがあるのだが、物理的自然は因果関係だけで、そもそもまちがいがない。ということで、「意味の自然化」をしないといけない。そうしないと、意味の世界は物理とは別の心のなかのこととか、エージェント(行為の主体)が行う環境の解釈にすぎないということになり、結局、科学の示す世界観と意味の世界は分離してしまう。この「意味の自然化」で大事になるのが、「機能」という考えで、ルース・ミリカンという学者が言い出したのだけれど、著者はこれを大変重視している。要するに、生物はみな進化の過程で「機能」をもつようになるのだが、「本来の機能」があり、これは間違いがあっても消えてなくなりはしない。「機能」は環境のよみちがいだのなんだので、正常に発動しないことがある。だから、「意味の自然化」を考える上で大事なポイントになる。

そして、世界は「情報」の連鎖でできているということがいわれる。これは「情報」を解釈する者を前提としない。地層や星の光は、解釈者の有無に関わらず「情報」を発する。この「情報の流れ」という自然のなかで、生存に有効なものだけを「局所的」につかうのが生物で、これが「表象」というものである。この「表象」も生物の「機能」だが、「表象」の進化の過程で、「いまここにない」けど、それを認識できたら生存に優位なものが「目的」としてあらわれることがいわれている。

最後は「自由」と「道徳」の問題である。「自由」はいろいろと神話化されているが、ほかから全く影響をうけない「自由」はオカルトで、まともな「自由」は誤りによって修正を行う「自己コントロール能力」という「機能」にほかならない。「道徳」は「自由意志」に根ざした「責任」とからむが、著者は立場を決めかねているそうだ。「責任」に関係があるのは「自己」であるが、「自己」は成長のなかで行われる「構成のしかた」であって、その意味で「物語」でもある。人間はこのような「自己」をもとに社会で「責任をとる」という実践をしており、これは互いのコミュニケーションのなかで進化してきた。しかし、科学によって人間に「自由」がないこと、例えば犯罪にいたる事細かな因果関係が明らかにされ「そうなるしかなかった」(「その人がした」のではなく「その人に起こった」)ということが解明されても、「自由意志」のない「道徳」も可能で、行為の帰結によって「道徳」をつくりあげることができる。しかし、この場合、人を罰する根拠は変化せざるをえない。応報主義・道徳教育・みせしめなどの罰の理論はみな問題がでてくる。このときに許されるのは「隔離」という根拠だけで、犯罪は「治療」されることになる。「自由意志」のない世界は暗黒のディストピアとは限らず、「意志の自由」と不当なコントロールを排除する「市民的自由」は別のものとする。

むすびは「人生の意味」であるが、「すべては決定されているから人生に意味がない」という意見に対して、「選択の自由」の強度の問題で、フルに人生をコントロールできなくても「意志的努力」の価値はなくならないとする。また「進化の産物である人間に究極の意味などない」という意見に対しては、「究極の意味」は「目的手段推論」という「機能」の暴走で、人生は短い目的の集合であるとする。「この宇宙のなかでは何をしようが、たいした存在ではない」という意見に対しては、どうして人生を無意味に思うかという点から答え、結局、こういう巨視的な視点は人が客観化能力を発展させたためにでてくるのであるが、巨視的な視点をとったからといって、自分であることはやめられないので、自己と宇宙の視点を往復しながら、人生をジタバタ作っていくしかないとしている。

おもしろいが、ハードな本でもあり、アフォーダンスや情報理論の公式などもでてくる。「情報の流れ」としての世界観とか、目的の出現のところは、『易』とか「天命」とかと関わるんじゃないかなと思った。「自由意志」や「人生の意味」はあんまり東洋の道徳では問題になっていないと思う。儒教はそもそも「神」がおらんし、「孝」を生命の連続に対する尊重だとすれば、まったく自然的だと思う。まあ、近世になると中国でも禅とか陽明学の関係で「心」の世界の独立をいったりする気もする。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 哲学
感想投稿日 : 2019年9月5日
読了日 : 2019年9月5日
本棚登録日 : 2019年9月5日

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