マックス・ウェーバーを読む (講談社現代新書)

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  • 講談社 (2014年8月19日発売)
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『マックス・ウェーバーを読む』というタイトルの通り、ウェーバーの主要な四つの著作を中心に解読していった本。章立ては次のようになっている。
第一章『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』
第二章『職業としての政治』
第三章『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』
第四章『職業としての学問』

■ 第一章『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』

資本主義の発展が、プロテスタント社会で特異的に見られたことに対して、その歴史的経緯と論理について考察したもの。ここからウェーバーの宗教社会学の構築が始まる代表作。

金儲けを卑しいものとするキリスト教の宗派であるプロテスタントで逆説的に資本主義が隆盛を極めることとなったのはなぜか。まずはルターの聖書翻訳に端を発する天職概念(Beruf)により世俗の仕事に対して積極的な宗教上の意味が付与されることに加えて、禁欲的実践が修道院の中だけに留まらず、世俗の生活にまで浸透する(世俗内禁欲)こととなり、その手段として仕事への没頭が善きものとされたことに始まる。

しかし、資本主義につながる資本の蓄積への行動に人々を駆り立てるにはそれだけでは足りず、後のカルヴィニズムが重要な役割を果たしたという。カルヴィニズムを特徴付ける「二重予定説」――人間が救われるかどうかは予め神の意志によって定めれていて、その予定を変更することはできない――が人々の考えと行動に決定的な影響を与えたという。救済されるかどうかが信者にとって何よりも重要であった当時において、自分が選ばれているのかどうか、それは何よりも重要なことであった。この点において人々は教会や祈りなどの呪術的なものから解放され、神の前で孤独化されるのである。そして、現世での神の栄光を増すための道具として自らを規定し、道具として有効であることをもって自らが救われていることを確信することができるという心情になる。そのことが、仕事をとおして神からの預かりものである財産をひたすらに増やすというその精神が各個人の中で確立していくことになるのである。

また、天職(Beruf)という言葉において、それを生涯変えないことを求めるのではなく、もしより多くの神の栄光を積み増す機会があるのであれば、積極的に職業を変えることさえ推奨される、ときには義務として、ことも重要である。つまり、プロテスタントの教義は、職業選択の自由や、なんとなれば資本主義社会において求められる起業家精神にも合致するのである。

ここにおいて、労働や資本蓄積自体が目的となり、また同時にきわめて個人主義的な資本主義に有利な精神とエートスがプロテスタントの社会において拡がってきたというのである。

ここで論じたようなプロテスタント的禁欲主義は、ウェーバーの時代においてもすでに過去のものとなっている。しかしながら、そこから形成された資本主義的合理的秩序はそれを産むこととなった世俗内禁欲の倫理が失われた後も残り続けている、事実上その中で暮らさざるをえない、いわゆる有名な「鉄の檻」として、というのがウェーバーの主張である。この論理展開は、著者も指摘するように相当に疎外などの資本主義の抱える問題点を指摘するマルクス主義を意識していたと思われる。そして、マルクス主義の下部構造を主とする唯物史観への反論の意味もあったはずである。

次のウェーバーの言葉は100年経った今もまだ有効であり続けているように思われる。
「経済生活全面を支配するにいたった今日の資本主義は、経済的淘汰によって、自分が必要とする経済主体――企業家と労働者――を教育し、作り出していく」(『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』)

この章の最後に著者が次のように言う。
「ウェーバーの「資本主義の精神」論の魅力は、「禁欲」「労働」「営利」という一見すると、互いに異質な三つの要素が、歴史の特定の局面で連動し、資本主義発展の契機になったことを、「天職」概念を軸にしてピンポイントで追跡したこと、そして、それによって経済史のなかで(倫理的な)「観念」が担っている役割を探求する方法論を示したことにある」

この本の魅力は、その通りこの意外な組み合わせの妙と巧みな論理展開なのである。歴史の謎解きを読んでいるようでわくわくするとともに、それが現在の社会においてもつながっているものであることから色々な考えを刺激してくれる点にある。

ウェーバーは『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』以降、古代ユダヤ教、ヒンドゥー教、仏教、儒教、道教など世界宗教が経済社会に与えた影響を比較宗教学的な観点から研究していくことになるのである。その壮大なプロジェクトはウェーバーの早すぎた死によって途絶えたが、今もって宗教社会学が重要で有益な課題であることは間違いない。いまだ宗教による紛争が絶えないことを考えると、その重要性とスコープは増しているとさえ言えるのかもしれない。

■ 第二章 『職業としての政治』

1919年のウェーバーの講演をもとにしている。近代国家において、職業政治家という新しい階層が生まれている状況と、また第一次世界大戦後の国際および国内の政治の混乱状況を反映していて、それが含む危うさとも併せて興味深く読むことができる。

ウェーバーはまず、国家を「正当な物理的暴力行使の独占を要求する人間の共同体」と定義する。ここでは何をもって「正当」とするかを定めないと前に進まない。
ウェーバーは支配の正当性について三つの類型を想定している。第一は伝統的な習俗に基づく「伝統的支配」であり、二つ目は個人の資質に結びつけられる「カリスマ的支配」、最後が法に基づく「合法的支配」である。ウェーバーは、この中でもカリスマ的支配の検討に多くを割いている。

また、非常に実際的な議論として、政治の遂行において、行政スタッフと物的財の関係を分析し、近代化の過程で、行政、戦争遂行、財政運営の手段が「指導者」の下に集約されてきたと指摘している。その中で本書のテーマのひとつでもある「政治によって生きている」職業政治家が生まれることになったのである。また、官僚制へも言及し、いわゆる官吏は非政治的な「行政」に集中し、党派性を持つべき「政治」とは距離を置くべきだとするのである。そして、官僚による政治を無責任な政治体制であると批判するのである。

「官吏として倫理的にきわめて優れた人間は、政治家に向かない人間、とくに政治的な意味で無責任な人間であり、この政治的無責任という意味では、道徳的に劣った政治家である」(『職業としての政治』)

ウェーバーは、大統領制による指導者の選択を進むべき道であるように述べている。そして、実際にワイマール憲法では大統領制が採られることになったのである。
「ところでぎりぎりのところ道は二つしかない。「マシーン」を伴う指導者民主制(フューラーデモクラティー)を選ぶか、それとも指導者なき民主制、つまり天職を欠き、指導者の本質をなす内的・カリスマ的資質を持たぬ「職業政治家」の支配を選ぶかである。〔…〕そうなれば、大統領――議会によってではなく人民投票によって選ばれた――だけが、指導者に対する期待を満たす唯一の安全弁となるであろう」(『職業としての政治』)

こうしたカリスマ指導者を希求するウェーバーの思想は、後にカール・シュミットによるナチス政権を法理論的に正当化に使われることになったのである。歴史は、ウェーバーの想定を越えて進んだのである。それは不幸なことではあったが、ウェーバーが後のナチズムの隆盛を目の当たりにしたとすれば、どのようにその論を進めることになったのかは一考の価値がある。

『職業としての政治』は、政治における目的のための手段の正当化をめぐって、「心情倫理」と全面的に結果に責任を負う「責任倫理」の対比について論じたことでも有名である。そこには、どちらか一方で足りるということではなく、現実に即した判断力と実行力が伴っていなくてはならないのである。それを思うとウェーバーがナチズムに傾倒することになったとは考えにくい。しかしながら、シュミットやハイデガーのふるまいと見るとそれは危うさとともにあるように思われる。それは、つまりこの講演からも見て取れる通り思想的にも何かを選択してきたということなのであるし、ある種の責任倫理を取ろうとしていることが見てとれるからである。

「政治とは、情熱と判断力の二つを駆使しながら、堅い板に力をこめてじわっじわっと穴をくり貫いていく作業である。もしこの世の中で不可能事を目指して粘り強くアタックしないようでは、およそ可能なことの達成も覚束ないというのは、まったく正しく、あらゆる歴史上の経験がこれを証明している。しかし、これをなしうる人は指導者でなければならない。いや指導者であるだけではなく、――はなはだ素朴な意味での――英雄でなければならない。そして指導者や英雄でない場合でも、人はどんな希望の挫折にもめげない堅い意志でいますぐ武装する必要がある。そうでないと、いま、可能なことの貫徹もできないであろう。自分が世間に対して捧げようとするものに比べて、現実の世の中が――自分の立場からみて――どんなに愚かであり卑俗であっても、断じて挫けない人間。どんな事態に直面しても「それにもかかわらず!」と言い切る自信のある人間。そういう人間だけが政治への「天職(Beruf)」を持つ」(『職業としての政治』)

近年、野口訳で『仕事としての政治』として新訳が出された。「仕事」と「職業」の訳仕分けなど、こちらの議論も興味深い。

■ 第三章 『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』

著者は、ここで1904年に書かれた論文『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』を取り上げる。ここでウェーバーは、科学的主張に対する「価値判断」に基づく批判なのか、「事実認識」に基づく批判なのかを明確にするということを科学における社会学における方法論として主張する。そのためにはその批判の執筆者は「価値規準」を明確化することが必要となるという。

ウェーバーは、どんな場合においても無条件に妥当する「客観性」はありえないと主張し、そのために自らがとった方法論の「一面性」、つまりどのような観点からそれを切り取ったのかについて意識的であることの必要性を述べた。その姿勢が、ウェーバーの著作を難解なものに見せていることもあるが、その禁欲的姿勢は現代の科学的探究の姿勢につながるものであり、ウェーバーをいまだ読まれるべきものにしているゆえんである。

「後にウェーバーは、研究者が、自らが対象に対して抱いている、望ましい/望ましくないといった「価値判断」を明らかにし、それを、(分析対象となる当事者たちの振る舞いの根底にある「価値関係」の解釈を含む)事実認識に可能な限り持ち込まないようにすることによって、社会科学が経験科学としての性格を保つことの重要性を強調するようになる。彼は、そうした基本姿勢を「価値自由」という言葉で表現する」

また、この論文のなかでウェーバーは「理念型」に言及している。
「研究にとって、こうした理念型概念は、帰属にかんする判断力を錬磨する効用をそなえている。理念型概念は、「仮説」そのものではないが、仮説の構成に方向を示してくれる。それは、実在の叙述そのものではないが、叙述に一義的な表現手段を与えてくれる」(『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』)

著者も指摘するように、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』においては、プロテスタントの勤労のエートスの理念型が想定されて、その理念型に対して史料分析や論理展開が行われているのである。

著者が、あえてこの論文を取り上げた理由がわかるような気がする。この論文は、あえて言うとウェーバーにとって、フーコーにとって『知の考古学』が持っているのと同じ位置づけにあるものと言えるかもしれない。

■ 第四章 『職業としての学問』

これもまた『職業としての政治』と同じくウェーバーの講演をもとにしたものである。講演録の方がストレートにウェーバーの考えが出ていて理解しやすいということもあり、これもまたよく読まれた本である。

この本で、学者として糧を得ることの社会的現実についてのウェーバーの視点からの分析を加えている。特に学者として成功が偶然に支配されることと、それを受け入れる覚悟が必要であることを強調する。この講演が学生を前にして行われたこともポイントである。

「学問上の「達成」はつねに新しい「問題提出」を意味する。それは他の仕事によって「打ち破られ」、時代遅れとなることをみずから欲するのである。学問に生きるものはこのことに甘んじなければならない。〔…〕われわれ学問に生きるものは、後代の人々がわれわれよりも高い段階に到達することを期待しないでは仕事をすることができない」(『職業としての学問』)

また、ウェーバーが教師に対して求めた高い倫理性にも注意が必要である。教師-生徒といった非対称な関係におけるその立場を利用した活動・言動について常に抑制的であることを求めるのである。特に教壇の上で自らの政治的党派性を押し付けることには強く反対する。預言者や扇動家は教壇に立つべきではないのである。これもまた将来を担う学生を前にした発言であることは忘れてはいけないのである。

これもまた、野口訳で『仕事としての学問』として新訳が出されている。『仕事としての学問 仕事としての政治』と一体化されているので、お得感があり、お勧めである。


著者の仲正さんは、アーレント、ハイデガー、カール・シュミット、ドゥルーズ、デリダなど多くの思想家の入門書を書かれており、解説は手慣れた感じがありわかりやすい。『仕事としての学問 仕事としての政治』の新訳を担当した野口さんが最近出した『マックス・ウェーバー-近代と格闘した思想家』と比較すると、よりウェーバーのテクストに即した解説になっていて、こちらもまたウェーバー入門書として有用性が非常に高い新書である。

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『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(マックス・ウェーバー)のレビュー
https://booklog.jp/users/sawataku/archives/1/4003420934
『仕事としての学問 仕事としての政治』(マックス・ウェーバー)のレビュー
https://booklog.jp/users/sawataku/archives/1/4065122198
『社会科学の方法―ヴェーバーとマルクス』(大塚久雄)のレビュー
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『マックス・ウェーバー-近代と格闘した思想家』(野口雅弘)のレビュー
https://booklog.jp/users/sawataku/archives/1/4121025946

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 哲学批評
感想投稿日 : 2020年8月10日
読了日 : 2020年5月28日
本棚登録日 : 2020年5月29日

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