街とその不確かな壁

著者 :
  • 新潮社 (2023年4月13日発売)
3.90
  • (405)
  • (546)
  • (353)
  • (65)
  • (20)
本棚登録 : 7107
感想 : 686
5

【はじめに ~ 「重要な要素」】
『騎士団長殺し』から六年ぶりとなる村上春樹の新作長編である。
この作品のもととなった『街と、その不確かな壁』(読点が「街と」の後にある)は、村上春樹がまだ若かりしころに文芸雑誌『文學界』に発表したものの、自身の意向からどの単行本にも収録されなかった中編である。その中編で使われた壁に囲まれた街のモチーフからは、初期の長編小説『世界の終りとハードボイルドワンダーランド』が生まれている。同時期の『羊をめぐる冒険』、『ダンス・ダンス・ダンス』のテイストとも違う一風変わったこの長編小説は、今となっては村上春樹の代表作として一番に名前が挙がるものではないが、いまだ根強い人気のある名作。二つの世界の物語が交互に章を変えて進んでいく構成と文体による独特の世界観は自分も強く印象に残っている。

この新作は、その『街と、その不確かな壁』を改めてリライトしたものを第一部とし、そこから全く新しい話を第二部、第三部として書き加えたものである。小説としては珍しく「あとがき」があり、この小説の成立経緯について村上春樹本人が説明を加えている。その中で過去の『街と、その不確かな壁』について「この作品には、自分にとって何かしらとても重要な要素がふくまれていると、僕は最初から感じ続けていた」と書き、その当時は「その何かを十全に書き切るだけの筆力がまだそなわっていなかった」と続けている。

最新作は相変わらずの村上春樹的な雰囲気をもったさすがの素敵な小説だった。しかし、そういったナチュラルで軽薄な感想に留まらず、ここは村上春樹が年月をかけ熟成した「重要な要素」について、それが何であるのかを感じとるために、もう少し深く読み込むべきだと思った。村上春樹がわざわざあとがきにそう書くのであるから、その「重要な要素」はひと言でいうのが難しいだけであって、決してふわっとした曖昧なものではないはずだ。そしてそれは、この小説の中でそれは十全に書き込まれているはずだ。それがこの作家と読者との信頼関係でもあるはずなのだから。自分もそれなりに長い時間人生を生きてきたのであるから、自分なりのその解釈ができるはずだとも思ったし、そうするべきだとも思った。小説の中で用いられる数多くの要素のひとつひとつが、何かその「重要な要素」のために選択されたのだと考えて読んでいくのだけれど、大事なことはそのメタファーなどの解釈にひとつの正解があるわけではないと考えることだ。そして、作者にもその正解を決定する権利はない。むしろ作者の意図を離れて多様な解釈を産出する作品こそが優れて小説的であるというものだということを信じている。そして、村上春樹の小説は特に多様な解釈を読者に際限なく促すような小説である。この『街とその不確かな壁』もまた、そのような小説のひとつである。そして、そこに「重要な要素」を作家が織り込んだと考えていることは信頼してもよいことなのだ。

ここからは小説の中で使われたメタファーの「影」、「時間」、「夢」を手がかりに、村上春樹が過去にしまいこんだ小説を今リライトして世に出す必然性を感じた「重要な要素」とは何だったのかについて、自分なりに考えたことを綴っていきたい。そのため、ずいぶんとネタばれとなる記述もあるが、ご容赦いただきたい。

【影と心】
壁の中で、私自身から独立した存在となり、そして失われる「影」をどのように解釈できるのか。自分は、「影」は「心」のある種のメタファーと読んだ。壁の中の世界では人は「影」をもたない。現実の世界では影がない人間が想像できないように、「心」がない人間は想像できない。影が光ある世界で存在するものに必然的に付随するのと同じように、「心」が意識ある人間として世界に存在するときに必然的に付随するようにわれわれには思われる。果たしてそうなのだろうか。「心」をわれわれが持っていることをもっと不思議に思うべきではないのだろうか。おそらくは「心」がなくても人間は生物としては生きていける。ときに「心」は生きていくにおいては重荷ですらある。われわれの「心」をもつことに対する自然さへの違和感こそが、そこに何かしら「重要な要素」があると感じさせたものではないだろうか。そうではないかもしれない。何か言葉にできる正解があるのであれば、小説という表現形式を取る必要もない。そのように解釈できることが小説の神髄でもある。

村上春樹は、作品中の便利な語り部であるイエローサブマリンの少年にこう言わせている。
「心とは捉えがたいものであり、捉えがたいものが心なのだ」
だからこそ、小説の形式を借りて「心」というものは仮象ではないのか、そもそも「心」とはいかにして可能であるのかを読者に考えてもらおうとしているのではないのだろうか。「影」がない世界を想像できるように、「心」のない世界を想像したとき、そこに何が見えるのだろうか。

第三部でも少年からこのように言わせている。
「そうです。あなたの心は新しい動きを求め、必要としているのです。でもあなたの意識はまだそのことをじゅうぶん把握してはいません。人の心というのは、そう簡単には捉えがたいものですから」

イエローサブマリンの少年や16歳の少女、そして壁の中の図書館の彼女はいずれも「心」をもつことについて、それを当たり前のこととしない。だからこそ、壁の中に留まる。壁の外のきみは言う。
「ねえ、わかった? わたしたちは二人とも、ただの誰かの影に過ぎないのよ」
彼女は「心」を一義的なものと考えない。彼女は時間の中で生きることを拒否しているのかもしれない。

【時間】
それでは「心」はいかにして生まれるのか。そこには「時間」が深く関与している。時間による因果の認識、時間による経験の蓄積によってのみ「心」は形成しうる。逆に言うと、因果や蓄積を必要としないのであれば、「心」は必要ないと言える。壁の中の世界では、「時間は進行しない」。針のない時計台はそのことを象徴している。日々は過ぎ、繰り返され、単角獣は死んでいくが、「時間」は進まない。子易さんの腕時計にも針はないのは、子易さんが「時間」のない世界の存在であることを示している。時計は近代社会の発明であり、工業社会を成立させるために必要とされた道具でもある。そしてまた、循環する時間ではなく、過去から未来へと一方向に進む時間は近代的自我の誕生にも深くかかわる。

少年は言う。
「この街には現在という時しか存在しません。蓄積はありません。すべては上書きされ、更新されます。それが今こうして、ぼくらの属している世界なのです」
われわれの属している世界には蓄積があり、過去から未来へと流れる時間がある。そこから近代的自我とそこに付随する苦悩が生まれる。そうでなかったかもしれない世界に対する悔恨があり、未来に対する責任や不安が生まれる。自由意志の幻想を生み、そして、われわれに記憶することを強いるのである。村上春樹は、そうでない世界を小説世界で描くことで、現実の世界の中で生まれる苦悩や後悔の原因となっている「時間」についての固定概念を揺さぶろうとしている。それこそがかつて中編『街と、その不確かな壁』で試そうとしたことであり、十全に描き切れなかったものであり、新しく第二部と第三部を加えることによって、よりその意図がクリアになった本作につながるものなのだ。

【自由意志と因果】
「心」と「時間」が交わる場所が「自由意志」である。作品の中で、「望みさえすれば」という表現が何度か出てくる。心から望みさえすれば壁の中と外を自由に行き来することができるとも言われる。しかし、望むことは自由にできないものなのだ。それが「望みさえすれば」という表現が使われる理由でもある。そして、自由意志がないところに本来は因果関係も責任も生じ得ない。それにもよらず、われわれは決断に苦悩し、その結果に煩悶するのだ。

このことをよく示しているのが、子易さんの家族のエピソードである。
子易さんはもともとは愛する奥さんとの間で子供をもうけるつもりはなかった。なぜなら、奥さんは東京での仕事があり、一方で子易さんは自分の住む町を離れることができず、子供をもうけることはその生活の障壁になるからだ。しかし、望まない妊娠により授かった子供を子易さんの町で育てることを承諾した奥さんは二人の間にできた子供を溺愛するようになる。そして、ある日、誕生日にプレゼントした自転車に乗って遊んでいた子供は目を離した間に家を飛び出して交通事故に遭い命を失う。子供に自転車を与えたこと、また目を離したことを子供を失うことになった原因と捉えてしまうことを止めることができなかった奥さんは精神の安定を失い、自ら命を断つような形で生涯を閉じることになる。

子易さんの人生の中で起きたことは耐えがたい不条理である。二人は子供を望んでいなかった。子供が存在しなくなったのはもともと彼らが望み、想像していた未来と同じものである。しかしながら望まない子供が生まれて、そしてその子供が失われてしまったことで、奥さんの命まで失われてしまうことになる。子易さんは「心」と「時間」を捨てることで、そこから離れることを選択したのではないか。子易さんの腕時計に針がないことはそのことを象徴している。われわれは、本来は自らの自由意志による選択や偶然による結果に苦悩する必要はない。必要はないのにそうするのである。「心」と「時間」が存在してしまっていることの避けられない帰結としてそうなるのである。そして、おそらくそのことを小説的に表現するために、第二部が付け加えられる必要があったのだ。

子易さんの物語はある種の救いのない物語である。そのような物語はこの世界にはいくつもある。それは世界には救いがないことの反映でもあり、世界はまたその存在のためには残酷にも救いを必要としていないのだ。そのことを十全に表現するためには小説という形をあえて取る必要があったのだ。

【夢と記憶】
壁の中の世界でも、福島の小さな町でも、わたしは図書館での夢読みを仕事とし、イエローサブマリンの少年がその後を継いでいく。「夢」は、物語の中でも大きな位置を占めている。それでは、壁の中の「心」と「時間」のない世界の中で夢はどういう記号となるのだろうか。ここで夢は現在ではなく、かつて見た夢、つまりは過去の「記憶」につながっているように思える。「心」のない世界、「時間」のない世界に抗うとき、記憶というものが重要な意味を持つと考えるのは妥当ではないだろうか。夢を読むという行為は「心」と「時間」の不在を代償する行為となっているのではないか。人がその人生を終え、現在というものを失う存在であるのであれば、過去の記憶=「夢」こそが最後に残る本質的なものになるのではないか。そして、「図書館」は、過去の記憶を蓄積したアーカイブを象徴するものなのである。

読むことの受動性。読むことは一方向的な行為であり、それを書いた人に対して、読むことによっては影響を与えることはできない。しかし、書く方では読まれることを前提に書くのであるから、読む行為はあらかじめ書くものに対して影響を与えている。読む行為はそれを後からなぞる行為である。第一部で心を通わせる少女は、彼女が見た夢を彼への手紙に書き続ける。そこに夢を見る行為と読む行為の関係が象徴的にすでに示されているのだ。
読むことによっては何かを変えることはできない。そして、われわれは読むことしかできないが、読むこと、つまり知ることと思い出すことこそ、そしてそれのみが倫理的に可能な行為であるのではないのかということを問いかけているなのではないか。

村上春樹は、記憶することの倫理性について、ずいぶんと前から意識的であったと思う。『ノルウェイの森』において、直子が「私のことを覚えていてほしいの。私が存在し、こうしてあなたのとなりにいたことをずっと覚えていてくれる?」とワタナベくんに対してそれだけをお願いする。なぜなら、直子はそれが難しいことであることを知っていたからだ。フランクフルトの空港で「ノルウェイの森」が流れてきてふいに涙するとき、直子のことを思い出し、そしておそらくは直子のことを長い間思い出さなかったことに対してワタナベくんは涙したのだ。そして直子がそのことを知っていたのだということも。

【カート・ヴォネガットと村上春樹】
ここまでのように考えを巡らせた理由のひとつにカート・ヴォネガットの存在がある。そのことについて以下に書いていきたい。

村上春樹は、2021年10月のBRUTUSの特集で「村上春樹の私的読書案内」として紹介した51冊の中にカート・ヴォネガットの『スローターハウス5』が挙げている。そこで村上春樹は、「当時ヴォネガットが我々に突きつけたのは、「この世界、どこまでがシリアスで、どこからがシリアスではないのですか?」という問いだった。そう、そんな線引きなんてできっこないのだ」と書いている。BRUTUSの特集向けに『スローターハウス5』を選び、その本についてこう書いたとき、この『街とその不確かな壁』を執筆している時期に当たる。おそらく、壁の外の(現実の)世界は、シリアスな世界を示しているだろう。そして、シリアスさは「心」に関わり、壁の中の世界はシリアスが欠けた世界を象徴しているのではないか。

カート・ヴォネガットは、小説『スローターハウス5』の中で登場する架空のトラルファマドール星人は自由意志を信じていない存在として描いている。宇宙の中で地球人だけが自由意志の存在を信じている奇妙な存在だという。トラルファマドール星人にとっては過去も現在も未来もすべてすでに起きたことであって、変えることはできないものである。誰かが死んだとしても、その時点までは存在していたのであり、存在自体は変わらないのである。つまり彼らの概念に従うと死は、喪失ではなく、単に時間という次元の中で一方の端でしかなくなるのである。ある意味ではトラルファマドール星人にとって時間はない。地球人が考える因果関係もそこには存在しない。小説の中で主人公はすでに起きた人生の時間を縦横に移動するが、それはあたかも記憶となった「夢」を読む行為のようである。

ヴォネガットは、第二次世界大戦で米軍に志願したが、出征の前日に母親が自殺した。そして、ヨーロッパ戦線に配属されてそこで捕虜となって収容されたドレスデンで悲惨な都市空襲を経験することとなった。ヴォネガットの『スローターハウス5』は、おそらくはその経験で得られた死生観が埋め込まれている。『スローターハウス5』自体が死生観、つまりは人間の生と死のシリアス性、を問う小説なのである。

村上春樹がこの小説を書くにあたってヴォネガットを意識していることを自分は確信している。そのことが「重要な要素」と村上春樹が言ったものと深くかかわっていることもまた同じくらい確信している。
第一部の中で手紙をやりとりする彼女は、彼女の夢の中で手のひらに目が付いていたことをその手紙に書いた。ヴォネガットの小説『スローターハウス5』の中に出てくるトラルファマドール星人の姿は手のひらに棒状の体を持ち、その頭部に当たる手のひら部に目を持っているのだ。この無造作に置かれた「手のひらの目」のエピソードは偶然ではなく意図的なものだろう。少なくとも村上春樹がトラルファマドール星人の手のひらに目があることを知らないわけがないし、その上で夢の中の少女の手のひらに目を付けたのは意図的でなかったわけがないのだ。少女の意識が「時間」をなくした側により近い存在であることからもその意図はよく合致する。そしてこの手のひらの目のエピソードにはかつての『街と、その不確かな壁』では書かれていなかったものであり、長編小説となったこの『街とその不確かな壁』で書き加えられたものなのだ。この作品は、ある種のカート・ヴォネガットへのオマージュでもある、と言ってもよいのではないだろうか。

【まとめ】
村上春樹が、この小説の中で表現したかった「重要な要素」とは、誤解をおそれずにあえて一言でいうとすれば、死生観であると言えるのではないかと思う。もう少し説明的に表現すると、有限な命という前提の上で、何を人生の価値として生きることができるのか、という問題だと言える。それは普遍的であるが、ひと言で表現することは難しく、また小説的表現によってのみ可能なアプローチができる問題領域だということでもある。ヴォネガットが小説という形でそれに挑んだように、また村上春樹もそこに踏み込んだ。かつて『壁と、その不確かな街』で試した領域であるが、ある意味では挫折したこの問題に改めて正面から挑んだと自分には思えた。そして、『世界の終りとハードボイルドワンダーランド』は、決して『街と、その不確かな壁』で感じていた「重要な要素」を追求した作品ではなかったことも理解することができる。書評などを見ているとこの『壁とその不確かな街』は、過去作と比べると相対的にそこまで高い評価を得られていない(他の過去の作品の方が好きだ、など)が、とても重要でメッセージ性の高い作品だと思っている。壁、壁抜け、図書館、記憶喪失、穴、井戸、洞窟などの過去の作品とも通底するメタファーや、コーヒーショップの女性店員に名前が与えられなかったこと(村上作品で固有名詞の有無は重要)、イエローサブマリンが示すもの(歌詞や映画、ビートルズとの関係)、などまだまだ読まれるべき要素は多くある小説で、また繰り返し読んでみたい小説のひとつになった。そしてその行為はまた過去の村上春樹の著作を新しい目で読むことになることを自分は確信している。

なお、この小説のもととなった『街と、その不確かな壁』は、国立国会図書館のオンライン複写サービスで取り寄せて読むことができる。対象は、文學界 1980年9月号 pp.46~99であり、具体的な方法は以下のブログ記事などを参考にしてもらえれば可能である。費用もそれほど高くなく、自分は1,227円で入手することができた。

https://bobisummer.com/the-town-and-its-uncertain-wall/

その内容は、長編小説になるに当たって、かなり大幅に書き換わっていることがわかる。表現だけでなく、結末も違っている。また例えば『街とその不確かな壁』は村上春樹の小説には珍しくセックスシーンが描かれていないことで話題になったが、もとの中編では主人公と彼女はセックスしていたりする。先に書いたように「手のひらの目」のエピソードも旧作には書かれていなかったものである。村上春樹自身が、世に出すのをよしとしなかった経緯もあり、それを読むことが正しいこと、少なくとも著者が期待していることではないのかもしれないが、どうしても読みたかった。同じような人もいると思うので、参考まで。

とても長くなり、またこうやって感想を書くまでにも長い時間がかかったが、その理由がある、そういった小説であったと思う。これまでの村上春樹の小説と同じく色々な読み方ができる作品だが、村上春樹がいう「重要な要素」とは何であったのかを考えながら、そしてそれぞれの答えを思いながらぜひ読んでほしい作品である。

-----
『スローターハウス5』(カート・ヴォネガット・ジュニア)のレビュー
https://booklog.jp/users/sawataku/archives/1/415010302X

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 小説エッセイ
感想投稿日 : 2023年12月24日
読了日 : 2023年4月22日
本棚登録日 : 2023年4月22日

みんなの感想をみる

コメント 0件

ツイートする