パチンコ 下

  • 文藝春秋 (2020年7月30日発売)
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在日という言葉が嫌いだ。
ただの名称だった言葉の裏に透けた悪意を感じるようになってから。

私は、日本人だ。たまたまこの島に何代も前から住んでいるという、ただそれだけのことだ。最近は、日本人という言葉も好きではない。

在日は~、日本人は~、こんな風に言葉を並べて誰かを攻撃する人や攻撃を正当化する人が大嫌いだ。そして、何も知らなかった子どもが、この言葉に悪意が含まれていると感じる大人になるような社会が嫌いだ。

私は、基本的に事なかれ主義で、人に面と向かって自分の感じ方を伝えるのはあまり得意ではないし、可能な限り人から嫌われたくない。そんなふうに長年過ごしてきたのに、こんなにも嫌いなものができるなんて。涙が出るほど腹が立つことがあるなんて。そして、これはずっと前からこの国にあった思考、悪意、構図なのだ。私が気付いてこなかっただけで。



ノアが死んだ。

勤勉で、心優しく、字を書くのが上手で、家族思いで、勇敢な、まるでお手本のような子。父を慕い、母を助け、弟を心配する、優しい優しい青年。
そんな、ノアが死んだ。

みんながノアの肩に少しずつのせていったのかもしれない。優秀な、公平な、勤勉な、有望な、これからを担う、そんな朝鮮人になってくれ。ノアなら、ノアは、ノアみたいなら、兄貴だったら。
そして、多くの人がノアにたくさんのものを投げつけた。きたない。国に帰れ。泥棒。いやしいやつらめ。そして、多くのものも奪っていった。働いても働いてもなかなか貯まらないお金。居場所。仕事。故郷への思い。
押し付けられ、期待され、奪われ、罵られ、追い詰められてノアは命を絶った。
ノアは日本人になりたかった。けれど、その願いはかなわなかった。

ノアを殺したのはこの国だ。
ノアに植え付けられた自分の出自への劣等感、どんなに努力しても向けられる偏見の目。どこまで行こうとも逃れられない、血。

けれど、ソンジャとイサクがこの国に来なければノアは産まれなかった。
この国に生まれたからノアなのだ。
それでも、この国がノアを殺す。
生まれながら、生まれた場所に否定されるということ。
日本人という冠で生まれたものには、決して実感することのない、
絶望、苦悩、恐怖、屈辱、孤独、怒り。


この国は今までに、一体何人のノアを殺したんだろう。
ネット上には、ノアを殺した言葉が今日も溢れている。


あんたは何をされたんだと叫びたい。あんたは国を追われたのか、生きていくのが嫌になるほどの目にあったのか。生まれた瞬間から居場所を追われ貧しさを強いられ努力しても努力しても報われず、立ち向かう気力さえ奪われたことがあるのか。
ノアは日本人になりたかったんだよ。この意味が分かるか。日本を嫌いだとか日本人を憎んでいるとかじゃない、ただ生きていくうえで蔑まれ疑われ努力を足蹴にされ出自を軽んじられもうこれ以上は無理だったんだよ。もうこれ以上。一人の人間として扱われないことが、努力が努力として評価されないことが、同じことを同じようにしている日本人と、同じように前に進めないことが、嫌だったんだよ。ノアはもうこれ以上、日本で日本人でないままでは生きていけないと、思ったんだよ。


読み終わってからもずっと、ノアのことを考えてしまう。
生きることを手放すことでしか安寧を得られなかった心優しい青年。
汚れていたくなかった、汚れてなんかいない青年。汚れているなんて、彼に思いこませたのがこの国だ。
血に何の意味があるんだろう。
生まれた場所はその人の何を決めるだろう。
ノアがノアとして生きていけなかった国で、私は生きている。

これは、日本を非難するような物語では決してない。置かれた場所での人々の生き方がちりばめられていて、故郷、異国、そこでの生活、愛着や嫌悪、期待や失望、思いの錯綜が、簡潔で潔い言葉で書き綴られている。

それでも、私が、悲しかったのだ。
田舎暮らしで何も知らずにハンスに惹かれ、身ごもり、イサクと人生を共にし始めた矢先にその生活を奪われ、愛する人の衰弱していく姿を看取り、それでも健気に育っていくノアとモーザスの幸せを祈っていたのだ。本気で。
私はソンジャだ。でも、私は日本人だ。そして、私はノアに口をきかないクラスメイトでもあるし、家族を理由にモーザスとの結婚に踏み出せない悦子でも、きっとあるのだ。


この国で幸せになってほしかった。
この国が、彼らが幸せになれる国であってほしかった。


読後、悔しさと悲しさと申し訳なさと情けなさと怒りと、うまく言い表せない、それでも、ただの負の感情だけではない、たくさんのことを与えてくれる力強さ。この本に出会えたこと、この本が日本語訳され、日本の書店に置かれていること。全てに感謝したい。

美しい装丁の美しい本です。
Min Jin Leeさん、私にソンジャの人生を歩ませてくれて、本当にありがとうございました。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 未設定
感想投稿日 : 2020年10月10日
読了日 : 2020年9月2日
本棚登録日 : 2020年8月28日

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