田舎暮らしに殺されない法 (朝日文庫)

著者 :
  • 朝日新聞出版 (2011年5月6日発売)
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本棚登録 : 176
感想 : 22
3

新型コロナウイルスの影響で地方移住を考える人が増えているとの報に接し、3~4年前に立ち読みした本書の存在を思い出し、購入して読んだ次第。
完膚なきまでに叩きのめされました。
「そこまで言わなくても…」と、何度も絶句しながら読みました。
人口3千人の村に生まれ育った地方在住者で、善い面悪い面を含め田舎の現実をそれなりに知る私でもそう。
田舎に対する免疫のない人には、かなり酷な内容かと思われます。
特に、リタイアを機に田舎に移住しようと考えているおじさま、おばさまたちは、心臓に悪いので読まない方が良いかと。
いや、読んでもいいですが、相当な覚悟が必要です。
読み進むうちに、逃げ出したくなるでしょう。
でも、運よく逃げ道を見つけるたびに、秒で塞がれます。
気づけば田舎暮らしに対する甘美な幻想は完全に打ち砕かれ、悄然とその場に立ち尽くすことになるでしょう。
卒倒する方も出てくると思われます。
本書を読んだ後、「いや、それでも自分は田舎で暮らすのだ」と思える方がいたとしたら、その方は大丈夫、田舎で暮らせます。
読了してみて分かりましたが、本書のテーマは「田舎で暮らす」ということではないのだと思います。
それは切り口に過ぎません。
結局、本書が問うているのは、読者が一個の人間として自立しているかどうか。
骨の髄まで甘えが染みついた自分は読んでいてしんどかった。
ただ、最後の2行に、背筋が伸びる思いがしました。
それでは、特別に「はじめに」だけをご紹介しましょう。
本書がどんな考え方の下に書かれているか、分かるはずです。
◇◇◇
都会生活に見切りをつけ、田舎暮らしに余生を賭けてみたいというあなたの気持ちはよくわかります。
数十年という長日月におよぶ、ひとえにこの矛盾だらけの残酷な社会を生き抜くための悪戦苦闘と、妥協に継ぐ妥協、忍従に継ぐ忍従の連続によって構成されている、あまりにも反人間的な屈辱の都市生活を余儀なくされ、身も心もずたずた、魂までもがぽろぽろになったところでようやく定年を迎え、人生のすべてであったところの、ときには家庭よりも切実な空間に思えた職場をあっさりと追い出され、世間でさかんに言われているところの、あたかも輝ける希望に彩られているかのごとき〈第二の人生〉とやらの、あまりにも抽象的な、あまりにもきれい事の言い回しの口当たりの良さと、鳥籠や刑務所から解き放たれたような素晴らしい後半生の幕開けを予感せずにはおかない、癒しと救いの色に染めあげられた目くらましによって、ろくすっぽ考えもせずに、これまでの厳しい現実のなかで培ってきたはずの厳しい尺度をいきなり投げ出してしまい、こんな暮らしは本物ではない、自分が望んでいた生活にはほど遠いという、漠然とした、そして悶々とした思いに、この際思い切っていっぺんにけりをつけてしまおうという反動の力に衝き動かされ、まったくもって無謀な、いかなる場合においても冷静な判断ができる熟年者らしくもない軽率な決断を下してしまうのです。
そうしたあまりにも軽々しくて安易なイメージに端を発した、元も子も失いかねないほどの危険な人生の展開に大切な退職金や残り少ない余生をそっくり注ぎ込んでしまう前に、田舎で育ち、都会から田舎へ戻ってすでに長いこと暮らし、田舎の表と裏を知り尽くしている私の言葉に、その種の雑誌やその種のテレビ番組ではけっして扱わない、いや、扱えない忠告にちょっと耳を傾けてみてください。
そんなお節介やら余計なお世話やらをしたくなったのも、泳ぎを知らない者が濁流を渡ろうとするような当然至極の失敗と挫折とに、案の定やられてしまい、もはや立ち直れないほど満身創痍となってすごすごと住み馴れた都会へ舞い戻ってゆき、それも、ほとんど無一文のような身の上となって、今度はかなり低いランクの暮らしを強いられる、後悔だらけの惨めな〈第二の人生〉を背負うことになるケースがあまりにも多過ぎるからなのです。
仕事、仕事、仕事に明け暮れる重圧的な日々、腹立たしくて苛立たしい人間関係、安定と引き換えに失ってしまった個人の自由と尊厳、思いどおりにゆかない子育て、くたびれ果て色褪せた夫婦仲、コンクリートジャングルにおいてひっきりなしに生じる正気の沙汰とは思えない犯罪や悲劇、一部の成功者だけがいい思いをすることができる、きらびやかな虚飾の空間、奴隷同然のわが身、汚れ切った空気に臭い水道水、高い人口密度がもたらすところの深い孤独感、さまざまな騒音が重なり合って四六時中唸りをあげる轟音の嵐、いつか必ず襲ってくると言われつづけている大地震への不安―。
そうした負の条件のあれこれから受けつづけるストレスを一気に解消しようとして大量に摂取するアルコールやニコチンのたぐいがもたらすところの不健康な分だけ無様な肉体と、その醜い肉体に象徴されるところの成人病と、病のかなたにはっきりと見えている無残な死―。
そんなこんなのおぞましさを全部ひっくるめて、退職を機に残らず退治してしまおう、一個の独立した人間としての立場やら、人間らしいまっとうな生き方やらを取り戻そうという焦燥感が一気につのり、ある日突然、ほとんど発作的に、田舎への移住と、それに伴うスローライフへの涙がこぼれるほど美しい憧れとが脳裏にひらめき、それはたちまち心の琴線に触れ、くたくたに疲れている脳を乗っ取って完全に支配し、どうせ短い一生だからやりたいようにやるさ、これからは生きたいように生きてみるさという、半ば自棄気味の独り言がみるみる現実味を帯びてゆくことになり、その夢以外は一切見えなくなり、ために、周囲の人たちのもっともな忠告をすべて聞き流し、もしくはお世辞半分の羨望の声に後押しされて、あたかもこの世の天国でも発見したかのような興奮と喜びをもって田舎暮らしを実践する方向へと、社会の荒波にもまれて分別も常識も充分に弁えているはずの一人前のおとながぐっとのめり込んでゆくのです。
そんなあなたに私が与えるのは、最大公約数的な、マスメディア好みの当たり障りのない、どこの誰からも文句が出そうにない、ゆえに何の役にも立たないような、むしろ害にしかならないような忠告とは厳しく一線を画するものになることでしょう。
そしてそれはきっと、あなたが人生で初めて自分の意志によって選択し、あなたの心の底から泉のごとく湧いてきた素晴らしい決断に水を差すようなことになるに違いありません。小説家のくせになんて夢のない奴なんだとか、人間に対する愛が著しく欠如したすね者ではないかとか、そんなたぐいの反感の言葉の二つ三つを投げつけながら、途中でこの本をぱたんと閉じて棄ててしまうか、まったく読まなかったことにするあなたの顔がはっきりと目に浮かびます。
しかし、あなたがどんな受けとめ方をされようとも、頑なに拒み、聞かなかったことにしようとも、あるいは、忘れたふりをしようとも、あるいはまた、偏見も甚だしいという罵声を叩きつけてきたとしても、言うべきことだけはきちんと言っておかなければなりません。
なぜなら、私は不動産屋でもなければ、人口が減る一方の地域になりふりかまわず移住者を呼び込み、数合わせによって強引に活性化を図ろうとする行政の関係者でもなく、また、歪んだ郷土愛にがんじがらめにされたまま真実の姿から目を背けつづける、極端に視野の狭い愚者でもないからです。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 未設定
感想投稿日 : 2020年5月28日
読了日 : 2020年5月28日
本棚登録日 : 2020年5月28日

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