氷点(下) (角川文庫 み 5-4)

著者 :
  • KADOKAWA (1982年2月2日発売)
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2015.9.26海難事故のおり、自ら救命具を他人に譲って死んだ宣教師の行為に心を打たれた辻口は、キリスト教に心惹かれるようになる。しかし夏枝を許せず、陽子への愛情も生まれない。夏枝は悩みながらも、消すことが出来ない陽子への憎しみから卒業式の答辞の用紙を白紙にすりかえてしまう。兄、徹だけがひたむきに愛情をそそぐが、自らの思いを自制すべく友人北原に彼女を紹介するーーー。人間存在の根源を問う不朽の名作。(裏表紙より引用)

まず愛について考えさせられた。自分はかけがえのない存在だという思いは、愛された実感から経験として学ぶ他に、得ることはできない。大事なのは主観的実感であり、客観的事実ではない。誰かに愛されることと、愛を感じることは別で、そしてたった一回でいいからその深い深い愛されるという実感を得なければ、人は愛に飢えてしまうのだと思った。多くの場合は幼少期だろう。親の愛を、事実としてでなく実感として強く受けられたかで人の人生は大きく変わる。私に子どもができたら、何よりもこの強く深い愛を捧げることを父としての使命としようと思う。が、愛することはできても、愛を実感させることはできるだろうか。また罪についても考えさせられた。愛とは何か、それは命を差し出すことだと、啓造は言った。しかし何より人間は自分が一番可愛い。命を差し出すよりも、自らの命を守るベクトルに力が働く。自己中で、利己的で、そんな人間達の描いた悲劇の物語だった。人格者の啓造は汝の敵を愛すという言葉で己を騙し、妻に悍ましい復讐を企てた。容姿端麗な夏枝は陽子を憎み続け、自殺に追いやった。徹も、陽子の幸せを願いながら結局彼女を我が物にしたいという利己的な感情には逆らえなかった。高木も村井も、この物語に出てくる人間のすべてに、醜い部分があった。人間はいい人になんかなれない。あまりにも利己的であり、自分が可愛く、そんな自分の望みを叶える為なら、どんな非道徳も行う、その悍ましさに自覚すらしない。しかし陽子の罪は、これらのものとはまた違うものである。彼女はなんの罪もない。可憐で強く、無垢で、自分のその無垢さ、白さこそが、未来もいかに自分を黒く染めようとする力が働いても私は決して染まらないという思いが、彼女のアイデンティティだった。しかしその白さの中に、黒を見つけてしまった。黒くなる可能性を見つけてしまった。永遠に白ではいられないことを知ってしまった。それは犯罪者の血なわけだが、高木の言うように、それが血でなくともいずれ彼女は同じように、完璧な白さと信じて疑わなかった中に見つける黒さに絶望するだろう。真っ白な彼女は、様々な人間の自己愛と他者愛、故の憎しみと怨みによって紡がれた、悲劇的な運命の上に生きてしまった。真っ黒な運命の中で、黒くなることを知らず、黒に極端なまでに抵抗しながら生きてきた。彼女自身もひねくれていると自嘲するその極端なまでの白へのこだわりが、彼女を絶望に陥れた。私は、永遠に白ではいられないのだと。しかしそれこそが人間の根源なのだ。原罪とは、行為や意思や感情に宿るのではなく、人間のしての人生そのものに宿るのだろう。生きて、自分を愛する限り、何かを奪うし、恐ろしい思いも抱くし、そうでなくてもそうなる可能性は捨てられない。人は醜い。私自身はどうだろうか。半分、諦めというか、罪深いことへの罪悪感も薄れるほどに生きてしまった。事実、この作品は愛と罪について深く考えさせられるが、強く共感できるかと言われたら別である。頭ではいろいろ考えられるけど、心から自らの罪に後悔はできない。原罪?だから何?人は皆そんなもんだと、そもそも罪ってなんだと思ってしまう。と同時に、もうそんな感受性も失ってしまったのかと、逃れられない罪を、犯した罪を恥じる心すらなくしたのかと、淋しく、卑しく思う。どれだけまっすぐに強く純粋に生きても、人間存在の根源的な原罪からは逃れられないと訴える一冊。私はもう、道徳的人間になろうとはあまり思っていないが、仮に罪なく純粋に、良き人として良き人生を送る人格者を目指す思いがあれば、それを諦めるには十分な作品である。汝の敵を愛せと言ったイエスがこの小説を読んだら、人類を諦めるかもしれない。我々はノアにはなれない。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 未設定
感想投稿日 : 2015年9月26日
読了日 : 2015年9月26日
本棚登録日 : 2015年9月26日

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