悪の恋愛術 (講談社現代新書)

著者 :
  • 講談社 (2001年8月20日発売)
3.14
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本棚登録 : 232
感想 : 21
4

2017.1.8
思えば、恋愛というものを真面目に考えてこなかった気がするが、これほど深い人間関係というものもないわけで。恋愛に対して持つ清らかな善人的関わり方を著者は批判する。恋愛とはエゴのぶつかり合いである。だからこそ、自分のエゴを通すためにこそ、利己的であるためにこそ徹底的に意識的に利他的であるべし、という本。悪も突き詰めると善になる。逆に言えば善も突き詰めると悪になるだろう。私は関係において意識的であればあるほど、つまり自己意識が肥大化すればするほど、他者は見えなくなり、そして関係が深くなればなるほど、そのような自己意識は肥大化し、他者をないがしろにしてしまう、と思っていた。それを私は、距離が近すぎると他者を傷つける、と思っていた。しかし思えば、関係に対し自覚的であることは、そのまま距離を遠ざけることになるだろうか。関係に自覚的であるいうことは関係に没頭しないということであり、それは他者とも、そして私とも距離を取るということだろう。そうしてこそ、関係における自由の幅は増えるし、それでもなお自由に振る舞えないことは多いわけだが、少なくとも何故そうなのかはわかる、反省できる。無意識的に関係を傷つけて、それに気づきもしない、善良なる悪人が最もたちが悪い。が、しかし、恋愛という関係のうちには、どこかで自分を相手に没入したいという欲求もあるのではないだろうか。そういうところをどう考えれば良いのだろうか。
悪の、という表題は、善的であることの批判として、キャッチーさとして書かれているだけで、本来は善も悪もない。関係における理想は双方の快である。そうでなければ長続きはしない。善とは相手の快の優先であり、自分が抜けている。悪とは逆に私の快の優先であり、他者が抜けている。私も快であなたも快、それを目指すべきだからこそ、善は否定されるべきだし、また同様に悪も否定されるべきではないだろうか。善悪の両義性が関係の目標ではないだろうか。しかしこれは簡単なことではない。それは他者が、私の支配の外側にいる主体だからである。だからこそ少なくとも、どこまでも関係に、自己に、他者に、自覚的であらねばならない。
あと、恋愛関係を作るためのところについて考えたが、我々は普通、告白してから関係がスタートすると考えている。しかし好きな人と共に過ごす中で、そこには言葉にならない告白がたくさんあるのではないだろうか。それは時に気遣いであり、時に眼差しではないか。告白されて意識するようになったという話は聞くが、このような言葉なき告白も同様ではないかと思った。また恋とは、二人の共有した関係に対しての思い出に対してのものではないか、すなわち我々は共有した過去によって恋をするのではないかとも思った。二人で過ごした時間の共有、その時間での楽しさ、快の共有、彼と彼女といたら楽しかったな、という時間の、過去の集積が、恋になるのではないか。平野啓一郎さんの「私とは何か」において、私とは関係の束であり、そして私は他者との関係における心地よい自己に恋をすると書いていたが、そういうことなのかもしれない。
著者の『悪の対話術』も読みたいと思う。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
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感想投稿日 : 2017年1月12日
読了日 : 2017年1月8日
本棚登録日 : 2017年1月8日

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