脱構築とプラグマティズム: 来たるべき民主主義 (叢書・ウニベルシタス 741)

制作 : シャンタル・ムフ 
  • 法政大学出版局 (2002年7月1日発売)
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ローティのデリダ解釈をめぐる論争です。収められている論文・論旨は以下の通りです。

「脱構築とプラグマティズムについての考察」(リチャード・ローティ)
・ハイデガー、デリダは西洋形而上学に対する根本的な二元分割に疑問を抱いているという点で、プラグマティストに近い。
・しかし、「ニーチェーハイデガーーデリダの形而上学への攻撃は、哲学に深くかかわっている人には私的な満足を与えるが、間接的に長い目でみる場合は別として、政治的には何の影響も与えない」
・「レヴィナスへの無限者へのパトスは、…それを倫理や政治と結びつけることができない。倫理や政治――文化としての政治に対立するものとしての現実政治――は、対立する利害を調停することであって、――哲学的分析は不必要で哲学的前提も要らない――陳腐な身近な言葉で論議されるべき」

「脱構築とプラグマティズム――デリダは私的アイロニストか公的リベラルか」(サイモン・クリッチリー)
〈ローティ解釈〉
・ローティは、「デリダの仕事が公的領域に広がると、無益とか有害であるどころか危険かもしれない倫理的、政治的影響があると」信じている。
・ローティのユートピアはリベラルなアイロニストという社会の構想
 →・議論によってではなく、形而上学をアイロニーとして捉えなおし、アイロニーをリベラリズムと矛盾しないように捉え直すことによって可能になる
  ・自由社会の普遍化によって可能になる
 →自由民主主義に必要なのは文学であって、哲学ではない。
〈批判〉
・「こういう見解は政治的自己満足に陥る危険があって、現存の自由民主性の内部の不平等や不寛容や搾取や公民権剥奪についての事実確認的な弁護であるかのように読まれかねない」
・リベラルでありながらアイロニストでもあることはできない。リベラリズムはひとつの倫理だから。
・ローティはデリダを「デリダⅠ」「デリダⅡ」と初期と後期にわけて、公的から私的になったとしたが、この区分が疑わしいものであるだけでなく、デリダは公的→私的というものではなく、理論的思索の叙述という形式から遂行的叙述へという変化をしており、更に近年では責任という公的な問題のほうが圧倒的に支配的であり、スタイルは理論的でも遂行的でもなく準・現象学的になっている。
・「もちろん私の結論は、公的なものと私的なものとを和解させるという、ローティは不要だとみている古典的哲学のプロジェクトを、デリダが達成しようとしているということである。もし脱構築が正義にかなっていれば、こうした正義への責任は、私的な自己創造においても公的な責任においても完全に妥当することになる。」

「サイモン・クリッチリーへの応答」(リチャード・ローティ)
・「正義」というようなふつう使われる言葉を、不可能性の名前だとする定義に重要さはない
・命題はコンテクストを求めるが、命題のいいところは状況に応じてメッセージをいくらでも変えられるところ
・脱構築は倫理的な意味はもちうるが、本質的にマージナルなものであるため、政治的意味はもちえない。
→ローティとクリッチリーの違いは、哲学的というより政治的なものである。

「脱構築・プラグマティズム・ヘゲモニー」(エルネスト・ラクラウ)

「エルネスト・ラクラウへの応答」(リチャード・ローティ)

「脱構築とプラグマティズムについての考察」(ジャック・デリダ)
・「決定不可能性または無限責任というテーマが、ローティがいったようにロマンティックであるとは思いません」「責任の無限性を捨てれば、責任は存在しないと私は言いたい」
・ローティは選択の問題を放棄している(プラグマティズムと民主主義の間に必然性はなく、そこにも選択の不可能性と事後的な決定という問題があるというラクラウの論を受けてか)

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
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感想投稿日 : 2012年6月1日
読了日 : 2012年6月1日
本棚登録日 : 2012年6月1日

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