ハリウッド映画で学べる現代思想 映画の構造分析 (文春文庫 う 19-10)

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  • 文藝春秋 (2011年4月8日発売)
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 物語が物語として成立するためには、どうしてもそれだけは書き込まないといけないいくつかの「仕掛け」というものは間違いなく存在します。
 例えば「よい人」というキャラクターは自立的には存在しません。
「よい人」が出てくる話には必ず「悪い人」も出てきます。それは「悪い人」の「悪さ」と対立的に描くことでしか「よい人」の「よさ」という性格的特性を際立たせることができないからです。
 仮にあなたが「よい人ばかり出てくる物語」というのを書こうと望んでも、それは不可能です。「世界中の人はみんないい人なんだ」ということをあなたが心底確信していて、そのメッセージを伝えようとしてどれほど汗だくになって書いても、それが物語である限り、「いい人だけ」しか出てこない物語は書けません。「悪い人」が出てきて、悪さをしない限り、「よい人」が「よい」ということが読む方にはどうしたって分からないからです。
「悪い人」が出てこない場合は、「よい人」の心にふと兆した「邪悪な思念」や「いかがわしい欲望」というかたちで、「悪い人格」が分離されます(倉本聰の『北の国から』には悪人がみごとに一人も出てきませんが、その代わりに、人間の無垢さや脆弱さのうちに巣食う本能的な邪悪さは、非情なまでに描かれています)。
 同じように、あなたがジャーナリストであって、まったく価値中立的なしかたで、ある「国際紛争」を報道しようと望んでもそれは不可能です。
 例えば「パレスチナ」問題を報道するとき、どこかに「被害者」を、どこかに「加害者」を配すること抜きに、この問題を報道することはできません。
「いや、パレスチナ人もイスラエル人も、どちらも被害者なのだ」というようなことを言う人がいるかも知れません。でも、被害者だけしかいない国際紛争というものを報道しようとして、読者が納得すると思いますか?
 そういう場合は、結局、「イギリス植民地主義の二枚舌外交」とか「アメリカ政府内のイスラエル・ロビー」とか、「国際社会の無関心」などに「加害者」の役割が押し付けられることになります。誰に「悪役」を振るのかが違うだけで、物語の枠組みには変化がありません。

 ウラジミール・プロップという学者は『昔話の形態学』という研究で、ロシアの民話を収集して、そのすべてについて構造分析を施したことがあります。その結果、登場人物のキャラクターは最大で七種類、物語の構成要素は最大で三十一という結論を得ました。
「家族の誰かが行方不明になる」「主人公はその探索を命じられる」「贈与者が呪具を与える」「呪具を利用して移動する」「悪者と戦う」「主人公の偽物が現れる」……などなどです。
 これはロシアの民話の構造分析ですが、いまどきの子どもたちがやっているダンジョンズ&ドラゴンズ系のRPG(お城の地下でドラゴンを退治してお姫様を奪還する」の物語設定は今でもプロップが採集した民話とほとんど同一の構造を保っています。
 いささか興醒めなのですが、実は私たちが「面白い」と思ってどきどきするストーリーラインというのは、たいていの場合、昔からあるいくつかの「必勝」パターンをなぞっているにすぎないのです。ですから、物語の構造分析というのは、無数の物語が実は有限数の物語構造を反復しているにすぎないということ、ロラン・バルトの言葉を借りて言えば、「私たちの精神の本質的な貧しさ」をあらわにする作業でもあります。
 でも私たちはここから出発する他ありません。
 あらゆる物語には構造があり、その構造の数は限られています。それを使ってしか私たちは思考することができません。
 別にだからといって悲観的になる必要はありません。私たちは現にその有限の構造を組み合わせて無限の物語を作りだしているわけですから。

 人間は自分が他人を出し抜いて、ただ一人状況全体を俯瞰していると思い込んだときに、ある種の致命的な無知に罹患します。無知というのは「知りたくない」という欲望の効果です。
「他人を出し抜いたと思い込んでいる人間」がいちばん知りたくないことは何でしょう。
「自分だけがすべての事情を知っている」という現状認識が、実は自分の思い込みに過ぎないという疑念でしょうか。
 違います。他人を騙す程度に悪知恵の働く人間なら、主観的願望が情勢判断に紛れ込むことのリスクを勘定に入れるくらいの知性はあります。
 他人を騙す人間がいちばん知りたくないこと、それは、自分が他人を騙していることを「当の本人は知っている」ということです。
 無知は「自分は知っている」という思い上がりのことではありません。「『自分が無知である』ということを他人は知っている」ということを知りたくない、という欲望の効果なのです。
 ですから「自分は他人より賢明である」と思いたがっている人間はもっとも簡単にこの欲望の虜囚になります。

 では「お金を払ってでも読みたい映画評」とはどんなものでしょうか。僕は条件は二つに絞られると思います。
 一つは「この人以外誰もそんなことを言わないことを書く」ということ。もう一つは「まとめて読みたくなるもの」を書くこと。この両方が必要です。どれほどユニークな映画論でも「続けてまとめ読みしたい」と思っていただかないと、単行本は買っていただけない。どうしたって、読み出したら止まらない「文の勢い」というものが必要です。「これまで読んだことのないような奇妙な話」であり、かつ、「読み始めると読み止めることができない」というこの二つの条件をクリアーせねばならない。
 ずいぶんむずかしい条件です。でも、技術的には可能だと僕は思います。どういう技術が必要なのか。ちょっとその話をしていいですか。
 僕は長く武道を稽古してるので、経験的にわかるのですが、人間というのは「何をしているのか、よくわからない動き」に対しては、センサーの感度を上げて対応します。「センサーの感度が上がった状態」というのは、やや呼吸が短くなり、筋肉が少し緩んで微かに振動し、五感が敏感になって、どのような感覚入力にもすぐに対応できる臨機応変モード、ゆらゆらと揺らぐような未決状態を選択するのです。
 ものを書くときの骨法は、この「ゆらぎ」の状態に読者を導き入れるということです。心身のセンサーの感度を上げて、あらゆる「予想外の展開」に備えている状態の読者こそ、望みうる最良の読者だからです。
 

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
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感想投稿日 : 2018年8月18日
読了日 : 2018年8月17日
本棚登録日 : 2018年3月20日

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