ブロンテ姉妹の二番目エミリー(1818-1848)の唯一の長編小説、1847年。原題は"Wuthering Heights"で、直訳すれば「風吹きすさぶ丘」といったところか。これを「嵐が丘」と初めて訳したのは英文学者の斎藤勇で、中野好夫らの師にあたる。この訳語には、日本語読者の内にめいめいに或る荒涼とした風景を思い描かせるだけの力がある。それが読者にとって読書時間を過ごすことになるこの小説世界の舞台となるのだ。いつまでも継がれていくであろう名訳である。
近代英文学に、これほどスケールの大きな悲劇を描き切った、「悪」を造形し切った、小説があったことを初めて知り、読後しばし呆然とする。本作品には、個性的という以上に、各々がそれぞれの形で常軌を逸した激した性格を持つ者たちばかりが登場する。人間性が否応もなく歪められてしまった、狂気の持ち主たち。そんな彼ら・彼女らの愛憎劇である以上、それはどこか【運命】的な趣きさえ帯びた悲劇ではないか。
「やけっぱちの男にとっちゃ、こいつ[銃身に飛び出しナイフのついたピストル]はすごい誘惑さ、そうだろう? ・・・。そんなことはやめろ、と直前までは山ほどの理由を並べて自分をおさえようとこころみるが、どうしても行ってしまう」(ヒンドリー)
「あわれみなんか持たんぞ、俺は。これっぽちもな。虫けらがもがけばもがくほど、踏みにじってはらわたを出してやりたくなる性分なんだ」(ヒースクリフ)
「おれの血を引く者がやつらの土地屋敷の持ち主に堂々とおさまるのを見て、勝利を味わいたい。おれの子がやつらの子供たちを雇い、賃金をもらって先祖の土地を耕す身分に落としてやる」(ヒースクリフ)
「なにしろ、あいつ[ヘアトン]、自分の野蛮さを自慢に思っているくらいだ。動物レベルを越えるようなことはいっさい、軟弱でつまらんと軽蔑するように、おれが教え込んだ」(ヒースクリフ)
「自分[リントン・ヒースクリフ]の苦しみには同情でき、お嬢さん[キャサリン・リントン]にも同情してもらいながら、お嬢さんの苦しみには同情しようともしないのね」(ネリー)
「そんなことはわかっているさ。しかし、あいつ[リントン・ヒースクリフ]の命には一文の価値もない。そんなやつに一文だってかけるつもりはないね」(ヒースクリフ)
卑しい出自として虐げられた怨念とキャサリン・アーンショーに対する愛憎が、ヒースクリフをして憑かれたようにアーンショー家とリントン家に対する復讐劇へ駆り立てる。虐待に対する反発として、ヒースクリフは自らが虐待者となって帰ってくる。一方、彼の虐待によって自尊心を挫かれてしまった者には、虐待者に対して自発的に隷属してしまう奴隷根性が根を下ろす。或る人間の内に悪が植えつけられて悪魔的な所業を為し、それによって別の人間が人間的でなくなっていく描写は、実に濃密で息も詰まらんばかりだ。
「おれの宮殿をこわして、かわりに建てたあばら屋をあてがいながら、さも立派な慈善事業でもしたような顔をされても困るのさ」(ヒースクリフ→キャサリン・アーンショー)
「この世はすべて、かつてキャサリンが生きていたことと、おれがあいつを失ったことの記したメモの、膨大な集積だ!」(ヒースクリフ)
人間として【運命】的な内なる悪と、それが生み出す悲劇の普遍性を描いた作品であると云える。現代まで続く無数の通俗的物語の雛型となっているのも、その普遍性ゆえだろう。
河島弘美訳は、物語の激しさを損なうことなく、かつ実に読み易い。
- 感想投稿日 : 2013年8月17日
- 読了日 : 2013年8月16日
- 本棚登録日 : 2013年8月17日
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