若かりし頃に印象に残った本や映画を再見すると、経験値や価値観の変化から新しい発見があるとよく言われるけれど。発表から40年以上も経ってから、作者自身が、完結した物語にそのまま別の最終章を付け加えるなんて、なかなかない。
「かもめのジョナサン」は、1970年にアメリカで刊行され、日本では1974年、作家の五木寛之氏によって「創訳」という形で発表された寓話。
より速く、より美しく飛ぶことに魅了され、寝食を忘れてまで、日々技を磨いていた、かもめのジョナサン。彼は、狩りのため、つまり、生きるために飛ぶという従来の価値観を否定し秩序を乱した罪で、群を追放されてしまう。
けれど、彼を理解する仲間たちが彼の前に現れて…という、三部構成の、希望に満ちた物語だった。
けれど、2014年に作者のバック自身が追加した第四部は。
技を極めた後に姿を消したジョナサンを神格化し、自由に飛ぶことよりも、彼の言葉の解釈を求め、それまで存在しなかったはずの形式主義に陥いり、儀式と階級を作り上げて…という、宗教団体の起こりと成れの果てのような出来事が描かれている。
信念を貫くことで満ちたりた一つの人生を描いた物語が、形式と固定化した価値に囚われて人生が不自由になる仕組みを描いた物語へと変質している。
バックの手になる序文によると、1970年の発表前に既に四部まで書き上げながら、当時は、喜びを絞殺するラストの必要性を感じず、敢えて封印して三部としたとのこと。
「二十一世紀は、権威と儀式に取り囲まれてさ、革紐で自由を扼殺しようとしている。あんたの世界は安全にはなるかもしれないけれど、自由には決してならない」
「ついにあるべきところに置かれた」として付け加えられてしまった時の流れと時代の変化を考えると、なんだか悲しくも詫びしい気持ちになった作品。
- 感想投稿日 : 2020年1月5日
- 読了日 : 2020年1月5日
- 本棚登録日 : 2020年1月5日
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