ドイツ参謀本部-その栄光と終焉 (祥伝社新書168) (祥伝社新書 168)

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  • 祥伝社 (2009年7月28日発売)
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メモ

①三十年戦争(1618〜1648年)後の絶対王権の時代
ドイツのカトリックvsプロテスタントの争いに端を発し、様々な利害関係から周辺諸国が参加し、泥沼化した、最後の「宗教戦争」
→30年間で戦場となったドイツは荒廃し、人口は30年間で1/3(1800万→600万)になったとも言われる。
→三十年戦争を終結させた1648年のウェストファリア条約以降、戦争は絶対君主の常備軍(せいぜい1万〜MAX10万人程度)による「制限戦争」で、庶民には関係のないこと。
→君主同士のゲームのようなもので、戦争は好むが、戦闘は恐れる(大切な常備軍を失うので)

そんな中、1740年に即位したフリードリヒ大王は大国(オーストリア・ハプスブルク帝国、フランス、イギリス、ロシア)に囲まれて、1756〜1763の七年戦争を戦った。
忠誠心の極めて高いユンカー貴族による常備軍を動員し、戦闘を恐れず、早い進軍で敵の補給路を断つ戦略で大国と渡り合った。
その影には最初の参謀総長と呼ばれる、ハインリヒ・ヴィルヘルム・フォン・アルハルトの存在があったが、目立たない。参謀の無名性の代表。

②フランス革命(1789〜1799)とナポレオンの時代
上記のような絶対君主の常備軍による制限戦争の流れを一変させたのがナポレオンである。
ナポレオンは「自由」「平等」「博愛」をスローガンに国民主義(愛国心)を高め、一般民衆を戦闘に駆り立てた。
→ ナポレオンの強力なリーダーシップのもと、徴兵制の活用、野営による飛躍的な行軍速度の向上、師団制による高い機動力などにより、ヨーロッパを席巻。

これに対抗策を生み出したのが、プロイセン参謀本部の父と呼ばれるシャルンホルストである。
シャルンホルストはナポレオンが生んだ大きな変化に適応するため、プロイセンを絶対君主制かつユンカー貴族による常備軍から、臣民の市民化とそれに基づく国民皆兵制の導入、そして将来を担う将校の養成に取り組んだが、改革を進めようとする彼への風当たりは強く、穏健改革派にも関わらず「ジャコバン派」と呼ばれ、冷遇された。
しかし、人格的にも優れたシャルンホルストの元にはグナイゼナウやクラウゼウィッツなど優秀な部下が育ち、徐々に参謀本部が形作られていった。

シャルンホルストとグナイゼナウによる対ナポレオンの消耗戦戦略により1813年ライプツィヒの戦いで敗戦、復活後の1815年ワーテルローの戦いでも撤退からの側面攻撃戦術で撃破した。

③ドイツ参謀本部の時代
ナポレオン後のヨーロッパは、1814〜15年のウィーン会議におけるオーストリアの外相メッテルニヒの主導により、反動保守的な体制となった。

1861年、ヴィルヘルム1世が64歳にして即位。その下で、首相ビスマルク、参謀総長モルトケの最強のコンビネーション(リーダー=政治、外交、スタッフ=戦術、戦闘)が生まれ、1866年の普墺戦争、1870年の普仏戦争という短期決戦でドイツ統一を成し遂げた。
その背景は、「ドイツは周辺を強国に囲まれながら自然の要害がなく、安全保障面から、ドイツ統一が必須である」というクラウゼウィッツの認識を2人が共有し、ビスマルクは卓越した外交で多正面戦線を避け、モルトケが卓越した戦術(鉄道を生かした分散進撃、決戦集中、包囲攻撃)により、各戦線で勝利したことがある。

そしてこの時代こそが偉大なリーダーとスタッフの共存による、ドイツ参謀本部の絶頂期であった。

④その後
絶頂期はその後の下降への危険を内包している。
それは第一次世界大戦ではスタッフばかりが育ち、戦闘に勝ちながら苛烈なヴェルサイユ体制に追い込まれた政治的リーダーシップの不在として現れた。
スタッフ側には有名なシュリーフェンプランがあった。多正面作戦(フランスとロシアを共に相手にする)を前提に、6週間以内にフランスを殲滅させ、その間の犠牲は厭わない、肉を切らせて骨を断つ作戦であったが、リーダー不在のもと徹底されず、また戦闘での勝利を外交的勝利に導ける政治家がいなかった。

その反動で第二次世界大戦では強力すぎる政治的リーダー=ヒトラーのもと参謀スタッフが悉く否定され、敗戦を喫する結果となった。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 社会、経済
感想投稿日 : 2018年9月25日
読了日 : 2018年9月26日
本棚登録日 : 2013年10月20日

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