日本人のためのイスラム原論

著者 :
  • 集英社インターナショナル (2002年3月26日発売)
4.27
  • (56)
  • (33)
  • (22)
  • (2)
  • (0)
本棚登録 : 435
感想 : 38
4

――――――――――――――――――――――――――――――○
「人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰による」律法を行なったからといって、それで人間は救われるわけではない。大切なのは行動なのではなく、心の中にある信仰なのだというわけである。このパウロの宣言によって、キリスト教は律法、すなわち規範と完全に訣別した。つまり、無規範宗教になった。では、いったい、なぜ、パウロは律法遵守を全否定したのか。その理論的根拠となったのは何か。それは「原罪」である。イエスの教えを理論化するにあたって、パウロが着目したのは旧約聖書の冒頭に記されたアダムとイブの物語である。(…)楽園追放の物語は旧約聖書の冒頭にある話だが、以後、旧約聖書のどこにも出てこない。実はユダヤ教においては、この物語はほとんど重きを置かれていなかった。(…)パウロによれば、人間はすべて神から与えられた現在を背負っている。つまり、不完全な存在であり、かならず悪いことをしてしまう生き物なのである。こんな人間に神が与えた律法を守れるはずがない。(…)いったいなぜ神は、守れるはずのない律法を人間に与えたのか。そこでパウロは、こう考えた。すなわち、律法を守れないことで、人は自分が原罪を持った存在であることを思い知る。いくら努力しても、自分の力だけでは救われることができないことを痛感する。だから、そこではじめて神を心の底から信じようと考える。神が律法を与えたのは、まさにそのためではないか……。このパウロの論理によって、もはや律法は完全に意味を失った。62
――――――――――――――――――――――――――――――○
日本人にとって、外面的行動を縛る規範は、言ってみればパンの耳のようなもので、堅いばかりでおいしくない。そんなやっかな部分はポイと捨て去って、おいしくて柔らかい白い部分だけをつまみ食いするのが、日本人の基本メンタリティなのである。114
――――――――――――――――――――――――――――――○
キリスト教は、まことに特異な宗教になった。異常と言ってもいい。ところが、たいていの日本人はこの異常さに気が付かない。(…)答えは「日本の仏教も戒律を廃止してしまっていたから」である。最澄による円戒の採用と、天台本覚論によって日本の仏教からは戒律が完全に消え去った。この結果、日本では「形より心」、つまり「戒律よりも信仰」という観念が常識になってしまった。(…)キリスト教がいかに異常きわまりない宗教であるか。それはヨーロッパのみが近代社会を作り出したという事実に端的に現れている。近代資本主義も近代デモクラシーも、キリスト教という異常な宗教があったからこそ生まれた。141
――――――――――――――――――――――――――――――○
慈悲深いアッラーは考えを変えて、人間を救うことにした。そこでコーランを与えてたというわけである。よって、キリスト教徒の考えるような原罪は存在しないというわけだ。これはまことに驚くべき後日談だが、たしかに道理は合っている。というのも、もし、人間が恐るべき罪を犯したというのであれば、神はそれっきり人間を放っておけばよかったわけで、その後、アブラハムやモーセ、あるいはイエスを通じて、たびたび人間に啓示を与えた理由がよく理解できない。だが、もし神が原罪を与えていないのだと考えれば、これですっきり話が通るというわけだ。351
――――――――――――――――――――――――――――――○
そもそもイスラムは都市から興った。イスラムは砂漠の宗教と言われるが、それは標語のようなものであって、真実ではない。モハメットが拠点としていたのは、すでに商業都市として栄えていたメッカやメディナであった。そのような「都市の宗教」が、経済活動を禁じたりするはずもない。何しろアッラーの神は「勘定高くおわします」。アッラー自身が商売上手を誇っているのだから、何をかいわんやである。399
――――――――――――――――――――――――――――――○
かつての王は、「同輩中の主席」という言葉が示すように、せいぜい封建領主の取りまとめ役みたいなもので、しかも伝統主義の縛りがあったから、大した権力を持っていなかった。ところが、力を持つようになった都市の商工業者が領主と対抗するために、王に肩入れをしたことから、王の権力は徐々に強くなっていき、ついには絶対王権なるものが生まれるに至った。(…)もし、イエスがカエサル(ローマ皇帝)のことを批判していたりすれば、王がこれほどまでの権威を持つことはできなかっただろう。しかし、イエスは皇帝のような権力者の存在を否定はしていないのだから、王が俗世でどんな権威を持とうとも関係ないのだ。(…)中世の王のように限られた権力しか持っていない王が相手であれば、いつまで経ってもデモクラシーなど生まれるはずもないのである。426
――――――――――――――――――――――――――――――○
イスラムでは、皇帝といえどもムスリムである以上、イスラム法を守らなければならない。イスラム法はすべてのイスラムに平等である。ヨーロッパの絶対王権がその頂点に達したとき、君主はすべての法や制度から自由であるとされた。まさに「朕は国家なり」であって、その権威は誰の掣肘も受けなかった。ルイ十四世とオスマン帝国のスルタンを比べたとき、その富や領土はスルタンのほうが圧倒的であったが、その権威を比べたとき、この関係は見事に逆転するのである。イスラムに近代デモクラシーが生まれなかった理由は、まさにここに存するのである。431
――――――――――――――――――――――――――――――○
イラン革命は、西洋流の市民革命ではない。本来のイスラム教では許されないはずの存在。シャー(イラン国王)を打倒し、イスラムの原点に戻った政治を行おうというのが、その趣旨であった。(…)ホメイニとは何者かといえば、イスラム法学者(ウラマー)である。ホメイニはしばしば「アヤトラ・ホメイニ」とも言われるが、アヤトラとはウラマーの中でも高位の学者の呼び名なのである。つまり、イラン革命はとはイランをふたたびイスラム法に基づく社会に作り替えようという、原点回帰の運動であったのだ。435
――――――――――――――――――――――――――――――○
聖書の中に書かれていることをストレートに信じるのがファンダメンタリストであって、ファンダメンタリスト独特の戒律があるわけではない。これに対して、イスラム教ではどこをどう振っても「コーランだけを信じればよい」というファンダメンタリズムが生まれてくる余地はない。コーランそのものが信者に対して、外面的行動、つまり規範を守ることを要求しているのだから、クリスチャンのようなファンダメンタリストなど生まれてくるわけがないのである。441
――――――――――――――――――――――――――――――○

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 小室 直樹
感想投稿日 : 2012年4月29日
読了日 : 2012年4月25日
本棚登録日 : 2012年4月25日

みんなの感想をみる

コメント 0件

ツイートする