古典を具材にして、料理の基本や栄養学あたりをうんうん考えながら、ご自慢のレシピ(≒古典)を披露し、最後はこれを美味しくいただこう! といったようなこの本、ちょっぴり噛みごたえが欲しい人にお薦めしたい。
『木のぼり男爵』『見えない都市』といった、わたしの憧れの作家イタロ・カルヴィーノ(1923~1985イタリア)に、須賀敦子の翻訳となれば、表紙をながめているだけでよだれが出てくる。なんど読んでも酌みつくせない垂涎の本だ。
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「古典とは、ふつう、人がそれについて「いま読み返しているのですが」とはいっても「いま、読んでいるところです」とはあまりいわない本である」
ある古典を壮年または老年になってからはじめて読むのは比べようのない愉しみで、若いときに読んだものとは異なった種類だ、とカルヴィーノは言う。
どれだけ頑張って読んだところで、質・量ともに膨大なこれらを読み尽くすことなんてできないのだから、すこしも気にせず、いつでもながめてみたらいい……そんなカルヴィーノの言葉は、ちょっぴり辛口で、優しいユーモアの味がする。
「古典とは、読んでそれが好きになった人にとって、ひとつの豊かさとなる本だ。しかしこれを、よりよい条件で初めて味わう幸運にまだめぐりあっていない人間にとっても、おなじくらい重要な資産だ」
まことにカルヴィーノらしい深遠な隠し味を仕込む。若いときに読んだ本そのものについて、ほとんど、またはぜんぜん覚えていなくても、ずっとわたしたちの役にたっていて、そのままのかたちでは記憶に残らないで、種をまいていくのがこの種の作品の特別な力という。
「古典とは、最初に読んだときとおなじく、読み返すごとにそれを読むことが発見である書物である」
「古典とは私たちが読むまえにこれを読んだ人たちの足跡をとどめて私たちのもとにとどく本であり、背後にはこれらの本が通り抜けてきたある文化、あるいは複数の文化の(簡単にいえば言葉づかいとか習慣のなかに)足跡をとどめている書物だ」
とにかく物語の主人公は忙しい、ひどく多忙だ。だからときどき、引いて引いて、鳥の目線のような遠景でみる。すったもんだしている彼らをよそに、あたりの風景だったり、食べ物や文化といったものをながめてみると、時空を超えた世界旅行に出かけた気分で楽しい。そして数百年、ときには数千年もの間、あらゆる人が読み継いできた究極の極め付きの本に溜息がでる。
「古典とは人から聞いたりそれについて読んだりして、知りつくしているつもりになっていても、いざ自分で読んでみると、あたらしい、予期しなかった、それまでだれにも読まれたことのない作品に思える本である」
「「自分だけ」の古典とは、自分が無関心でいられない本であり、その本の論旨にもしかすると賛成できないからこそ、自分自身を定義するために有用な本でもある」
これもおかしい。カルヴィーノはルソーの本が「自分だけ」の古典になっているらしい。いくつも論難したいことがあって、本の存在もルソーも気になって仕方ないようで大笑いした。そういう本がわたしにもあって、学生のころにはじめてその本を読んでわーわー言い、それでも気を取り直した。社会人になってまた読むと、やはりわーわー言っている。さすがにそれを3回ほど繰り返したあたりで、一体どうしたものか? と自分を持て余したものだ。カルヴィーノのルソー愛!? のくだりを読んで、やっと溜飲が下がった。
「古典とは、他の古典を読んでから読む本である。他の古典を何冊かよんだうえでその本を読むと、たちまちそれが「古典の」系譜のどのあたりに位置するものかが理解できる」
端的で的を射た指摘に脱帽する。「古典を読んで理解するためには、自分が「どこに」いてそれを読んでいるかを明確にする必要がある。さもなくば、本自体も読者も、時間から外れた雲のなかで暮らすことになるからだ。古典をもっとも有効に読む人間は、同時に時事問題を論じる読み物を適宜併せ読むことを知る人間だというのは、こういった理由からである」
こんな感じで云々かんぬん書いている。たぶんこの時世では少しお節介なのかもしれない。でも「人それぞれ」だから~という名の無関心時代に、なんとも泣けてくるような思いなのだ。カルヴィーノの本と後進への「愛」だな(^o^)
後半は古典本の紹介をしていて興味深い。『オディッセイア』『アナバシス』『狂乱のオルランド―』『ロビンソン・クルーソー』『パルムの僧院』、バルザック、ディケンズ、フロベール、トルストイ、マーク・トウェイン、ヘンリー・ジェームス、ヘミングウェイ、コンラッド、パステルナーク、レーモン・クノー、ホルヘ・ルイス・ボルヘス、パヴェーゼ……。
彼の切り口は驚きに満ちていて、これだけ多角的に、ときに辛口、ときにユーモアのスパイスを交えて古典を考察した人もそういないと思う。何度読んでも新しい発見があっておもしろい。そんなカルヴィーノの魅力を見事に表現した須賀敦子の訳、池澤夏樹氏の解説も楽しい(2023.4.19 )。
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「古典とはその作品自体にたいする批評的言説というこまかいほこりを立て続けているが、それをまた、しぜんに、たえず払いのける力をそなえた書物である」――イタロ・カルヴィーノ
- 感想投稿日 : 2023年4月19日
- 本棚登録日 : 2017年1月27日
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