世界から猫が消えたなら (小学館文庫 か 13-1)

著者 :
  • 小学館 (2014年9月18日発売)
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5

2024.2.9 読了 ☆9.0/10.0


いいものは、月日が経っても色褪せない。
この本にも同じことが言える。

10年前に刊行された物語を、高校生の時に初めて読んだ。

当時は自分に響かなかった言葉に、今読んだ自分は心動かされている。

その差こそが、大人になったということなのだろうか。成長したということなのだろうか。

本読むことの価値を改めて教えてもらった。


さて、巻末の中森さんの解説にもある通り、


“「何かを得るためには、何かを失わなくてはならない」
そんな苦い哲学を含んだ寓話だった。
そう、これは現代のおとぎ話なのだ。おとぎ話が何らかの教訓を含んでいるように、この小説にはハッとする言葉や、ためになるパンチラインがたくさん出てくる。”


ハッとさせられる言葉がたくさん出てきて、未熟な自分に正直チクリと心に刺さって痛いのです…


そんな、心地良くもある心の痛みこそ、この本の味わいなのだと感じます。


“目の前のことに追われれば追われるほど、本当に大切なことをする時間は失われていく。そして恐ろしいことに、その大切な時間が失われていることにまったく気付かないのだ”


全くその通りで、ぐうの音も出ません…


何度でも読み返したい本です。




〜〜〜〜〜心に響いた言葉〜〜〜〜〜



○世界から電話が消えたなら


僕らは、電話ができることで、すぐつながる便利さを手に入れたが、それと引き換えに相手のことを考えたり想像したりする時間を失っていった。電話が僕らから、想いをためる時間を奪い、蒸発させていったのだ



恋には必ず終わりが来る。必ず終わるものと分かっていて、それでも人は恋をする。
それは生きることと同じなのかもしれない。必ず終わりが来る、そうと分かっていても人は生きる。恋がそうであるように、終わりがあるからこそ、生きることが輝いて見えるのだろう。



電話そして携帯電話の発明により、人はすれ違わなくなり、待ち合わせをする意味を失った。でも、つながらないもどかしさ、待っている時間の温かい気持ちが、あの震えが止まらないほどの寒気と一緒に僕の中で力強く残っていた。



そのとき僕は気付いた。この気持ちが、学生時代に彼女からの電話を待っていたときの、あの気持ちと同じであることに。すぐに伝えられないもどかしい時間こそが、相手のことを想っている時間そのものなのだ。
かつて人間にとって、手紙が相手に届き、相手から手紙が届く時間が待ち遠しかったように。
プレゼントは、物"そのもの"に意味があるのではなく、選んでいるとき、相手が喜ぶ顔を想像する"その時間"に意味があるのと同じように



○世界から映画が消えたなら


「生きていくことは美しく素晴らしい。くらげにだって生きている意味がある」
そう。くらげにだって意味がある。だとしたら映画にも、音楽にも、コーヒーにもなんにだって存在する意味があるのかもしれない。「あってもなくてもよいもの」こそがこの世界にとって重要なものだとさえ思えてくる。無数の「あってもなくてもよいもの」が集まり、その外形を人型にかたどって「人間」というものが存在している。



もし自分の人生が映画なのだとしたら。僕はエンドロールのあとも、その人のなかに残る映画でありたい。たとえ小さく地味な映画だとしても、その映画に人生を救われ、励まされた人がいて欲しい。
エンドロールのあとも人生は続いていくのだ。誰かの記憶の中で僕の人生が続いていくことを、心から願った。




○世界から時計が消えたなら


時間という決まり事をもって人間は寝て、起きて、働いて、食べている。つまり時計に合わせて生きている。人間はわざわざ自分たちを制限する時間、そして年月、曜日という決まり事を発明した。さらに、その時間という決まり事を確認するために、時計を発明した。
決まり事がある、ということは同時に不自由さを伴うということを意味する。だが人間は、その不自由さを壁に掛け、部屋に置き、それだけでは飽き足らず、行動するすべての場所に配置している。挙句の果てには自分の腕にまで時間を巻きつけておこうとする。
でも、その意味が今はよく分かる。
自由は、不安を伴う。
人間は、不自由さと引き換えに決まり事があるという安心感を得たのだ。



僕が何気なく過ごしてきた時間が、とてつもなく大切なものに思えてくる。僕はあと何回キャベツと一緒に朝を迎えることができるのだろうか。残りの人生、大好きなあの曲を、あと何回聴くことができるのだろうか。あと何回コーヒーが飲めるのか。
ごはんは何回、おはよう何回、くしゃみ何回、笑うのはあと何回だ?
果たして本当に大切なことをやってきたのか。本当に会いたい人に会い、大切な人に大切な言葉を伝えてきたのか。
僕は母さんにかける一本の電話よりも、目の前の着信履歴にかけ直すことで目いっぱいになっていた。本当に大切なことを後回しにして、目の前にあるさほど重要ではないことを優先して日々生きてきたのだ。
目の前のことに追われれば追われるほど、本当に大切なことをする時間は失われていく。そして恐ろしいことに、その大切な時間が失われていることにまったく気付かないのだ。ちょっと時間の流れから離れて立ち止まってみれば、どちらの電話の方が自分の人生にとって重要なのかはすぐに分かることだったのに。




○世界から猫が消えたなら


世界から猫が消えたなら。
猫が消えた世界は何を得て、何を失うのだろうか。
「人間と猫はもう一万年も一緒に生きてきたのよ。それでね、猫とずっと一緒にいると、人間が猫を飼っているわけじゃなくて、猫が人間のそばにいてくれてるだけなんだっていうことが、だんだん分かってくるのよ」



そもそも死の概念があるのは人間だけだという。猫には、死に対する恐術というものが存在しない。だから人間は、死への恐怖や悲しみを一方的に抱きつつ、猫を飼う。
やがて猫は自分より先に死に、その死が途方もない悲しみをもたらすことが分かっているのに。そしてその悲しみは不可避なこととして、いつの日か必ず訪れると知っているのに。それでも人は猫を飼うのだ。
とはいえ人間も、自分で自分の死を悲しむことはできない。死は自分の周りにしか存在しない。本質的には、猫の死も人の死も同じなのだ。
そう考えると、人間がなぜ猫を飼うのか分かってきた。
人間は自分が知りえない、自分の姿、自分の未来、そして自分の死を知るために猫と一緒にいるのではないか。
猫が人間を必要としているのではない。人間が猫を必要としているのだ。



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読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 自己啓発
感想投稿日 : 2024年2月9日
読了日 : 2024年2月9日
本棚登録日 : 2024年2月9日

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