服従

制作 : 佐藤優 
  • 河出書房新社 (2015年9月11日発売)
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本棚登録 : 1073
感想 : 113
5

 私の周りにはウェルベック好きが意外に多い。そうしてこの作家が好きだという人たちはみな、ウェルベックのことをキワ物、クセ者として捉えていて、だからこそ好きだというへそ曲りな読者が多い。荒唐無稽な設定や決して上品ではない性描写から、例えばノーベル文学賞を与えられるような正統派とは全然違うところが魅力であるらしい。
 一方でこの最新作の『服従』は、2015年の1月7日が本国での発売日だった。イスラム過激派に12人の編集者や風刺画家が射殺されたまさに凶行当日の紙面は、ウェルベックの顔が第一面を飾った。そこで彼はいかにも意地悪な毒舌家らしく醜く誇張して描かれていた。ウェルベックを知る人たちはその偶然にしては出来すぎの紙面をニュース映像で見て驚き、それ以外の人は一体これは誰だ、と思った。フランスにイスラム政権が誕生するという物語の設定と相まって、一冊の本としては異例なくらいのセンセーションを巻き起こしている。翻訳版の発売直後東京の大型書店では、最新の芥川賞作品2冊、直木賞作品1冊と並んで一番目立つところに平積みにされていたところもあった。又吉の受賞や秀作揃いの受賞作だったことから、大盛り上がりだった日本の出版界だが、そこに、話題のエンタメ系物語やビジネスの指南書なんかじゃない純然たる翻訳小説が肩を並べて売られていることはとても珍しい。

 今まで敬遠していたこのアクの強すぎる作家の作品を私が初めて読んだのも、やっぱりこの事件があったからだ。興味本位からの入り方だったと馬鹿にされても仕方ない。しかし、一読後の私の感想は、キワ物作家の話題作という印象とは全く反対極の、コレはヨーロッパの歴史と未来を大上段から捕えた正統派文豪の一大傑作ではないのか、というものだ。 
 そこまでの褒め言葉が相応しい作品かどうかは、ぜひ実際に読んで各々が判断してほしいのだが、私からは象徴的なシーンをひとつだけ紹介する。

 主人公の失職した大学教授が、イスラム政権発足後に就任したイスラム教徒の学長から改宗を迫られる終盤のシーンだ。主人公は、アラーに帰依すれば国立大学への復職も、元の3倍の給与も、何人もの妻を同時に持つことも可能になると勧誘される。
 それに先立つ物語の前半、主人公は様々な事柄の“衰えと終焉の予感”を痛感する。
 文学研究者として、研究対象としてきた作家にも作家としての頂点とその後の凋落期があったこと。
 常に繰り返してきた、二十代の若い教え子と自由な恋愛関係を維持して行く“自らの男性機能の衰え、男としての情熱の衰え”。
 自らの研究者としての“仕事の頂点にあることの自覚とその後の没落の予感”。
 そうして何よりも“キリスト教を土台にしたフランスの、ひいてはヨーロッパの凋落の実感”。
 以上のような諸々の事柄を前提として、主人公が学長から「人類の文明の頂点にあったこのヨーロッパは、この何十年かで完全に自殺してしまったのです」と説得される。学長はまた、「古代ローマ人は、自らの帝国が崩壊する直前まで、自分たちが永遠の文明であると感じていたであろう」とも言う。
 そうしてそのシーンの舞台となったのは、ソルボンヌ大学にほど近いリュテス闘技場を窓から見下ろす学長の家の一室なのだ。私はこのシーンのこの場所の一点に注目する。
 パリの史跡のひとつリュテス闘技場は日本語のガイドブックには一切記述がない。だから日本人観光客は誰も行かない。しかし、パリが古代ローマ帝国の辺境であったことの証であるこのコロッセイウムのミニチュア版の遺跡は、パリの地元では小中学校の移動教室で必須の見学場所である。
 「ここは、パリが古代ローマ帝国の一部であったことの証です。そうしてこの建築様式はローマがギリシアから受け継いだものです。そして、ここが発見され発掘された150年前、パリは文明の完成度では世界の頂点にあったのです」
 と説明を受けたことがパリジャンならば必ずあるはずなのだ。
 それは東京の子供たちが、現在の皇居は150年前には江戸城だったと自明に知り切っているのと同じなのだ。
 また、ヨーロッパの人々にとってイスラムの脅威が歴史的潜在意識であるのと同時に今そこにある危機であることも自明だ。
 
 主人公がヨーロッパ文明の「自殺」を思い知らさられる場面の舞台は、ギリシアもローマも近代フランスの栄華も一瞬の幻に過ぎなかったことを象徴する場所であるのだ。しかも、その瞬間に、主人公自らの肉体の衰えの始まりと、精神の終焉の始まりとがぴったりと重ね合わされているのだ。
 これほどの壮大なスケールの物語を見事に巧みな舞台設定で描いているこの作品を、私は正当な文豪の大作だと思わないではいられない。
 テロ事件や難民の大流入で欧州全体が揺れている今よりむしろ、この一冊の真価が証明されるのは、何十年か後なのかもしれない。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 小説
感想投稿日 : 2015年11月21日
読了日 : 2015年11月21日
本棚登録日 : 2015年11月21日

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