望みしは何ぞ: 王朝-優雅なる野望 (中公文庫 な 12-9)

著者 :
  • 中央公論新社 (1999年4月1日発売)
3.61
  • (11)
  • (12)
  • (26)
  • (1)
  • (1)
本棚登録 : 141
感想 : 13
3

藤原絶頂期の終わりの始まり。女の股を覗き込んで政治をしていた時代。前作『この世をば』のストーリーを藤原能信という別視点から眺める。盛上らない面白さ。


 平安時代と言えば藤原摂関家の時代である。しかし、藤原と言えども一枚岩ではなく、藤原四家のなかで強運の持ち主がのし上がっていく権力闘争がある。永井路子の平安三部作の最後。序曲で始まり、ここにFin.

________
p79 三条帝落としのために能信を昇進
 道長と三条帝のパイプ役である蔵人頭だった能信が昇進した。後継には兼綱がなったが、かれでは道長という大物を御しきれない。それに託けて、道長は三条帝との溝を深め、天皇廃位へ追い込んでいった。
 そういうやり方もあるんな。

p95 飄々たる
 三条帝の子:敦明は、自分より14歳も年下の道長の孫にあたる一条帝の東宮を拒否して、敦良に東宮を譲った。自分がこのまま即位すれば、三条帝vs道長家系の対立は終わらない。そういった現世のしがらみに辟易して、権力に固執することからの開放を求めての東宮辞退を決意したのだろう。そうした飄々とした態度は当時の貴族社会では異常であるが、高尚とも考えられる。
 これを最初に受けたのが東宮のお友達としての能信だった。その事実が、能信が敦明に辞退を促したのではという噂になり、いつのまにか彼の功績になった。事実はどうかわからないが、能信も道長の子でありながら、明子の子供ということで権力闘争から一歩引いた地点から物事に取り組んでいたという点で、敦明同様普通じゃなかったんだろうな。

p121 この世をば
 「この世をば 我が世とぞ思う 望月の 虧けたることも なしと思へば」と道長は威子の立后の日の祝宴で歌を詠んだ。
 能信は「父君も囲い込みに失敗したな…」と辛辣に思った。道長はこの歌の返歌を藤原実資に求めたが、丁重に固辞されたため後世に道長の自信過剰な振る舞いの逸話として残ってしまった。
 調子に乗りすぎてしまった事案も、誰かがフォローしてくれれば笑い話になるが、大真面目に採られると揚げ足取りになる。自分の歌に返歌を作らせて、実資にも道長礼賛させようという魂胆が破れ、面目丸潰しになった。道長の勢いが陰り始めたか。

p158 怨霊
 能信の妹:寛子が危篤に陥った。それに託けて修験者やら祈祷師が寄ってきた。
 顕光と延子の亡霊による怨念だということを演じている。能信は怨霊信仰を冷めた目で見ている。怨霊信仰というものは政治的道具だと考えている永井路子の考えを代弁してくれている。

p183 法華八講
 道長が後年におこなった苦行。これにより産後に死んだ嬉子の追悼と道長と争った三条帝の怨霊慰撫をした。これを道長は能信に打ち明けた。
 道長は三条帝の怨霊を怖れていたのだ。結局、やましい所があるから怨霊を恐れることになるのだ。
 能信が怨霊など迷信と考えられたのは、恨みを買うことが無かったからだろう。人を呪わば穴二つということだな。

p236 女の股
 この平安時代の政治というのは「皆がよってたかって女の股を覗きこんでいる」と能信は喩えた。
 確かに、自分の娘を天皇の后に押し込んで、その生まれた子が男の子かどうか、その「引き」を持っているかいないかで政権が決まる。となれば、皆自分たちの娘の股を覗き込んで政治をしているのだ。㌧だ時代だな。

p238 平忠常の乱
 藤原能信の生きた時代に、平忠常の乱が関東で起き、それを源頼信が鎮圧して関東に武士団を築き上げるようになっていった。
 武士の勢力が大きくなる契機であるが、一方この頃貴族たちはそんなことを気にも留めずに、目先の政治駆け引きに明け暮れていた。

p336 白河天皇
 能信の娘:茂子は尊仁(御三条帝)に輿入れし、貞仁を産んだ。貞仁はのちの白河天皇である。
 それまで摂関家に牛耳られていた天皇の皇子を産ませるという流れを断ち切った。ある意味革命的である。
 この白河天皇以降、摂関家の力は薄れていく。院政が始まり、権力は外戚から上皇に集中していく。それでもコバンザメのごとく藤原家は権力にまとわりつくが、白河上皇以降、地位を得た藤原氏は茂子の系列、つまり能信の血を引くものであった。

p343 王朝序曲
 永井路子の平安三部作、第一作『王朝序曲』は権威と権力が分割されながらも密着していく過程を綴った。象徴天皇制の祖形を描いた。
 政治大好き桓武天皇で天皇権力は分割されていく。そして象徴天皇のはじまりである嵯峨天皇が出てくる。そこに藤原という家系が登場する。
 藤原摂関家が天皇から権力を奪い、藤原王朝を築いていく、藤原組曲の序曲の部分を描いた。

p344 この世をば
 第二作『この世をば』では、華やかなイメージの平安時代の現実を描く。政治世界の権謀術数と女性の存在価値を藤原王朝カンパニーを中心に赤裸々に語った。
 道長の謳った「この世をば~」の和歌が体現する藤原絶頂の当時の世を描いた。歌の世界であった平安時代、歌は本当に時代を表した。

p345 望しは何ぞ
 第三作『望みしは何ぞ』では何が語られたのか。
 道長の息子でも、権力の中枢にある鷹司系ではなく高松系に生まれた能信が、時代から一歩退いて政治に関わり、その後新しい「院政」の時代を開拓することになる物語を描く。
 この物語の読みどころは、「不条理の体現者である能信の軌跡を、産む性としての女の問題に絡めて綴った」という点にあると縄田一男は解説する。
 不条理な政治の世界に身を置く男たち、一見権力を握っているようで、しかしカギを握るのは子を産む女たちなのである。そういう歪んだ平安社会を描いたとこがこの作品の肝である。
 「みんながよってたかって女の股を覗きこんでいる」という一文がすべてである。

 客観性を持つ人間として描かれた能信、彼は自分の父:道長が築いた摂関家の権力を終わらせる契機をつくった。彼が望んだものはなんだったのか。彼の存在は歴史が望んだことだったのか。
 望みしは何ぞだったのか。

p346 つぶての意味
 解説者曰く「『夜の梅の雪』の章で、しみとおる雪の冷たさも忘れて能信が己の野心を新にするシーンを思い起こしていただきたい。そしてあの時、彼が「ー飛礫か」と、思わず首をすくめたときの後頭部に走った痛みはなんだったのか。あるいは、それを理解することが、本書を真に読んだ、ということになるのかもしれない。」
 p229のシーンである。
 能信は後一条帝の妃:威子の中宮大夫として威子の出産に仕えた。しかし、彼女の産んだのは女児だった。それを知ったコバンザメどもは落胆の空気を隠せなかった。それを能信はうまく払拭するようまとめ、それを頼通に感謝された。権力者に恩を売ったのである。
 もしこのまま鷹司系の血筋が天皇家を後継する男児を産み続ければ…。自分たち高松系の者には政権のお鉢は回ってこない。そのために、この出産は賭けだった。もし男児が生まれれば自分の代で変化は望むべくもない。
 しかし、このまま男児が生まれなければ、道長が死んだ今、頼通を頭とする鷹司系は瓦解する可能性がまだ残る。そして、自分はその女児誕生で頼通に恩を売り、権力の中枢に近づく。

 そういった魂胆が能信の胸の内にあった。まさにその筋書き通りになったその時、能信はその背後に誰とも知れない脅威を感じた。飛礫が投げられたという錯覚とともに。

 この錯覚というのが平安時代に跋扈した怨霊たちなのであろう。自分の肚の底に溜るドス黒い何かが波立つ時、人々はその陰に怨霊を感じる。後ろめたさが産む、ドス黒いそいつが怨霊の正体である。

 怨霊を信じなかった能信にも晴れて怨霊が顔を見せたのである。

________

 シリーズ読破。やはり平安時代はどろどろしているから難しくて、戦国時代とかのように熱く盛り上がることはない。だから安定して★は3つくらい。

 しかし、大人になった今だからこの物語の面白さがわかる。これは、大人の歴史読み物である。


 怨霊というものがシリーズを通してよく出てきたが、きちんと最終巻でその点にもまとめが入っている点が素晴らしい。(とはいえ初見ではわからなかった。『悪霊列伝』という永井路子の別著を読んで、改めてこの本を見直して怨霊のことに気付いた。)

 全部読み終わって振り返ると、全部★4つくらいの評価になるな。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 歴史
感想投稿日 : 2015年3月26日
読了日 : 2015年3月20日
本棚登録日 : 2015年3月26日

みんなの感想をみる

コメント 0件

ツイートする