黒衣の宰相 (文春文庫 ひ 15-1)

著者 :
  • 文藝春秋 (2004年8月3日発売)
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感想 : 14
4

江戸時代を作った悪い人 崇伝の物語。日本のマキァヴェリ政治家として家康のブレーンになった。こういう悪い人が必要なんだ。


 謎の多い崇伝をかなり具体的に描いている。つまり創作が多いのだろうが、人間臭く描写していて面白い。
 紀香との恋、くのいち霞とのケンカ、天海僧正への妬み、キチンと人間として描いている、これが大事なのである。

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p67 法論
 崇伝は大徳寺の妙空と法論をかわすことになった。法論なんて大したものではないと崇伝は言う。教義や寺の優劣を弁舌で決するのは間違っている。弁舌が巧い方が勝つだけで、本質的な論戦したことにならない。宗教で優劣を決めようとする行為は間違っている。

p72 紫衣
 紫衣は五山派の天龍寺と五山派別格の南禅寺にのみ許される法衣だった。

p74 水
 「作麼生、説破」の内容。妙空曰く「世界の雨粒の数を数えよ」崇伝曰く「水は流れるがまま形を変え、千差万別であるのが本来の姿。物事の一つのカタチに囚われないことこそ諸行無常の本質(ドヤ)」

p77 自由自在
 禅では自由自在が何よりも尊ばれる。心が一つに囚われず、融通無碍であればいかなる状況であっても適切に応じることができる。それが「無心」であり「石火の機」と呼ばれる境地である。

p81 沢庵
 但馬国出石に生まれ、勝福寺で出家し修業した。のちの大徳寺の住持になり、三代家光の帰依を受けて品川東海寺をひらいた。

p89 勝重に誘われて
 家康の臣下である板倉勝重に誘われて家康のことを知る。勝重は三河の地で武家に生まれ、若くして出家した。しかし兄弟が戦死し、跡継ぎがいなくなったので還俗し家康の家臣になった。禅寺で修業したことがあるので崇伝と打ち解けられたという設定。

p104 信心とは…心理学っぽい
 崇伝はという破れ寺に左遷された。中国に密航しようとした罰がここにきて出た。という設定。
 その破れ寺を再興するために崇伝は嘘をついた。「身代わり阿弥陀」という足利尊氏をすくった尊仏が祀られているというふれこみを撒いて、信者を集めようという作戦である。崇伝さん、これは良いんですか?
 崇伝曰く「謀るのではない。救いを求める者にとっては妄言もまた、真実になるということよ。」きっかけは何でもいい。ポジティヴシンキングになって状況を打開できることが大事なのである。そのキッカケが方便でもいいのだ。

p171 外交
 崇伝は玄圃霊山の下で外交文書のやり取りを整理する役職に就いた。そのおかげで国際外交のノウハウを得た。これはその後のキリスト禁教令に繋がるのだろう。

p189 三成のようになってはいけない
 頭がキレすぎる男の常として三成は平素から他人を小馬鹿にし、わずかでも落ち度があるとその者を痛烈に批判せずにはいられない質だった。何事においても妥協せず情け容赦がない。そのため三成は敵が多く、秀吉という後ろ盾を失ってしまっては誰も付いてこなかった。
 いつの世もそうである。日本では上司になれるのは人間関係を円滑にできるやつである。実務派は頭にはなれない。

p203 家康
 家康は三河国岡崎城主:松平広忠の子として1542年に生まれた。家康の生まれた当時、父:広忠は今川義元と織田信秀という強豪に挟まれた三河を治めていた。
 広忠は今川家の後援を受けて三河を治めていたが、妻の於大の方の実家:水野家がなんと織田方についてしまい家康は3歳にして両親が離婚してしまった。
 そして5歳にして今川家への恭順の証として人質に出される。その途中、かどわかしに遭い織田家に売り飛ばされ、織田家の持つ人質になってしまう。その後、父:広忠も家臣の裏切りで暗殺され、実家を今川義元に接収されてしまう。その後、人質交換で今川家へ回収されるも、今川家の三河統治の道具として扱われ、結局故郷に帰れない屈辱的な日々を駿府の地で過ごした。
 元服した家康は変わらず今川家に良いように扱われ、織田家との小競り合いがあるたびに鉄砲玉として危険な役目を押し付けられた。しかし、家康19歳の時、桶狭間の戦いで今川義元が敗死すると、混乱に乗じて三河岡崎城を奪還した。そして家康は織田信長と手を結んだ。
 このように若いころに辛酸をなめ続けた家康は我慢強い人間に育った。「無暗に怒らぬこと」それができる人間になった。

p245 リーフデ号
 リーフデ号が漂着した際に、崇伝は外交官として船長のウィリアム=アダムズと謁見した。

p247 ヤン=ヨーステン
 リーフデ号に乗船していた砲術師ヤン=ヨーステンは日本の砲術指南役になった。彼は関ヶ原にも従軍した。彼の屋敷は現在の八重洲の地にあった。八重洲は彼の名前から来ている。

p248 直江状
 会津の上杉景勝の家臣:直江兼続が家康に対して出した宣戦布告状。ここから関ヶ原の戦いへつながる。

p260 雲はみな
 「雲はみな 払い果てたる 秋風を 松に残して 月を見るかな」家康が関ヶ原の合戦後の処置について歌った歌。晴れ渡る空に浮かぶ月を見るよりも、少し暗い雲がある方が月見には趣がある。もし雲が払われてしまったなら、松の枝越しに眺めるのが良い。
 つまり、敵をすべていなくしてしまうのはかえって危険である。豊臣秀頼を廃絶するのは新たな火種になりうるから、そうべきでないということである。

p291 高虎
 伊予今治城主の藤堂高虎を家康は迎え入れた。そして伊賀の国を与えた。伊賀の国を与えたというのが彼に対して何を期待しているかが見える。伊賀と言えば忍者だ。

p313 関白封じ
 関ヶ原後の処置として、家康は豊臣家が関白職を得られないように工作した。一条兼孝を関白に据え、その後は関白職は五摂家持ち回りにした。そのようにして豊臣家の朝廷に対する力を削りに行った。

p330 崇伝は心からの仏教徒ではない
 え!?崇伝は生きる手立てとして禅門に身を置き、建前上戒律をまもっていた。だから人々が戒律を犯すことに対してそれほど関心はなく、寛容さがあった。
 宗教家でありながら、現実的であったからこそ政治に向いていたのであろう。理想と現実のはざまにいる、それこそ政治家である。

p336 紫色
 かつて、紫色という色は西洋ではムレックス貝のパープル線から抽出して染色していた。ごく少量しか取れない染料だったため非常に高価だった。紫色が日本にも伝わったが、日本にはパープル線を持つ貝が居なかったので、紫草の根で色を抽出した。植物による染色は何度も染め付ける手間があり、やはりものすごい高価なものだった。
 つまり、紫衣は贅沢の象徴でもあったのだ。

p341 無駄遣い
 崇伝の本拠である南禅寺は本堂を豊臣家に再建してもらった。これは板倉勝重が崇伝に豊臣家の財力を削るための方策として献言した策である。
 このほかにも、家康は豊臣家に方広寺(秀吉が大仏殿を創建した寺、例の梵鐘の銘文の寺である)の大仏殿再建をすすめた。それもこれも、豊臣家に蔵してある莫大な財宝をすこしでも削るための無駄遣いである。

p365 乱世こそ悪
 乱世が人を不幸にする。戦う者同士がいかなる大義名分をかざしても、戦で人が傷つき、死んでいくのは動かしがたい事実である。世の中に、賄賂が横行し金まみれの世の中になったとしても、罪なき者が苦しみ死んでいく世の中よりずっといい。

 って崇伝が言ってた。

p369 駿府
 駿河国の国府(ミヤコ)だから駿府という。温暖な気候で、晩年の家康はここに居を置いた。

p374 中間地点の駿府
 江戸から京へは12日はかかる。それが駿府なら7日で行ける。家康は実権を譲り、自分が西国に睨みを利かせる存在になったのだ。

p422 ハニートラップ
 朝廷のドスケベどもを利用して、幕府が朝廷よりも上に立つことを演出した。崇伝は朝廷内の貴族が、しかも天皇の后までもが夜な夜な淫行に更けるという噂を聞いた。媚薬(アヘン)を飲ませたりしてそれに拍車をかけるように仕組んだ。それが後陽成帝の耳に入り、帝は激怒した。当事者はみな打ち首にする勢いだったが、家康がそこで仲介に入った。昔から貴族の下半身事情はひどくて、この度の事件も歴史的に見れば極刑にするほどでもないということにした。
 この計らいに事件の当事者は当然喜び、貴族全体として家康に従う流れができた。それほど貴族は陰奔が横行していたのだろう。それを公に許してくれる家康に感謝しないわけがない。そして天皇はメンツをつぶされてしまった。結果、家康は朝廷の実質的な主導権を得たも同然になった。

p498 大久保vs本多
 大久保と本多は幕府の重鎮として主導権を争っていた。それに終止符を打ったのは、家康だった。本多の策謀で大久保忠隣に謀反の疑いがあるとして、配流の刑に処した。豊臣家との争いも佳境に入り、自軍の中で重鎮級で抗争があっては一枚岩になって政争に挑めない。それゆえに大久保家を切り捨てたのだ。

p506 方広寺
 豊臣家の菩提寺の方広寺。ここにはいまでも「国家安康」「君臣豊楽」の銘文が入った梵鐘がある。見に行こう。

p528 片桐且元かわいそう
 徳川家に方広寺の梵鐘事件の弁明に来た全権大使の片桐且元は、不憫。
 実質的に徳川が支配する世の中になって、豊臣家がお家取り潰しにならずに生き抜くには徳川家に降るしかない。しかし、淀殿など頑なな派閥もいて、恭順派の且元は苦しい思いをしていた。
 江戸に来た且元はやはり豊臣家を潰さないように譲歩してもらうべく協議に来た。その結果、①大阪城明け渡し②淀殿を人質として差出し③秀頼の江戸参内いずれかを満たせば許すという譲歩案を得られた。
 しかし、これを持ち帰った且元は徳川方に豊臣家を売ったという謂れをつけられてしまった。
 本当に現実が見えていたが故の結果だったのに、裏切り者の汚名を着せられて、不憫である。
 まぁ、いつの世もそういうもんだよね。頭の良いものや、正義の者が報われないのはしょうがない。そういう時は、その場を離れる以外に仕様が無い。

p552 即行和睦
 大坂冬の陣はもとから大阪城を落とすことに主眼は置かれていなかった。家康の目的はあくまで豊臣家を潰すこと。もし大阪城を落して一度で豊臣家を潰そうものなら時間がかかりすぎる。そのうちに西の毛利、島津、東の上杉など未だ爪を隠している戦国の猛者が隙を狙って攻め込んでくるとも限らない。
 まずは電光石火のごとく攻め込み、相手にすぐ和睦を申し入れる。豊臣家に「家康は本気で御家を潰す気はないカモ…」という隙を作る。だが、この戦いで東西の力の差は歴然になり、次なる戦いでは豊臣家を裏切る者が増えるだろう。外堀をきちんと埋めてから、豊臣家を潰す、家康らしい我慢強さ。

p568 大筒
 当時の大型砲火は2種類ある。百匁筒(口径40ミリ)までが大筒で、それよりも大きいのが石火矢という。もののけ姫に出たのは石火矢衆だったな。

p586 家康亡き後
 世の中一番危ういのは、カリスマが没した直後である。秀吉の死後、まさにそうであろう。
 今度は家康である。家康の死後、豊臣家も滅ぼし対外的な敵を失った徳川政権は、内なる戦いが始まる…。

p621 死者の多い合戦
 大坂夏の陣は日本史上最も多い死者を出した合戦と言われる。大坂方一万七千、徳川方七~八千、両者合わせて二万を優に超える、関ヶ原の戦いをはるかにしのぐ。
 というのも、この合戦は西国大名にとって本当に背水の陣だった。この戦で敗れたら、生き残っても江戸幕府では生きていけない。多くの大名にとって、死に場所になったのである。

p642 禁中
 公家諸法度の二年後に制定された「禁中並び公家諸法度」は以前の法案に天皇家も適用範囲に加えた。同時に「諸宗諸本山法度」も制定したが、これにより古来から幕府が手を焼いてきた朝廷と寺社、ともに統制下に収めたことになる。
 秀吉の頃は彼の人の好さによってどちらも従えてきたが、徳川の世になって法の下に従えた。
 世の中全体を法治主義に治めたこと、これが家康の大事業の結晶である。
 
p644 消えた崇伝
 1615年、崇伝は二条城と伏見城で3つの法令(武家諸法度、禁中並び公家諸法度、諸宗諸本山法度)を発してから忽然と姿を消している。崇伝の日記『本光国師日記』もこの頃の記述が抜けている。
 ここでは崇伝が女のもとに走ったとしている。紀香さんのもとへ。

p655 本多vs土井
 大御所派の本多正信と将軍派の土井利勝の主導権争い。これから始まる、家康の後の内なる戦い。

p659 天海が鐘銘の犯人
 天海が梵鐘の文字を作ったという噂。鐘銘を考えた清韓上人は事前に天海に完成品を観てもらった。もとは「国家安泰」だったが「国家安康」に変えたという。
 噂だよ、噂。まさか天海が仕組んだなんてね。

p678 後藤庄三郎
 徳川家の金庫番であった後藤庄三郎は40代で引退した。金に絡む者は嫌疑を受けやすく、大久保長安もそうだし、この時も庄三郎が秀忠から不正蓄財を疑われて、子の広世に代替わりした。
 庄三郎の子の広世は家康の隠し種である。家康から賜った愛妾の大橋の局は嫁いだころにはすでに孕んでいた。大橋の局は側室:阿茶の連れ子で、つまり家康は血縁はないが、義娘を孕ませたのだ。それを隠すためである。これは暗黙の事実であったらしい。
 徳川の血を引くものを造幣番の跡継ぎに据えれば、自分も助かると踏んだのである。
 家康の時代の終わりの一面。

p690 上杉謙信大明神
 上杉謙信は、死後謙信の意思により甲冑をつけたまま大きな甕に入れられて居城の春日山城に埋葬された。死してなお、守護神として上杉家を護っていくためである。この遺骨は上杉家の国替えの時も持っていかれて、米沢城に埋められている。
 家康や秀吉はこれに倣ったのだろう。戦国大名は死してなお一門の繁栄の象徴になろうとした。
 戦乱の世に生きたからこそ、象徴という物の必要性、重要性を理解していたのだろう。

p692 吉田神道
 吉田神道を革新的なものにしたのが室町時代の吉田兼倶という人である。
 足利義政の時代、日野富子に近づいて「天皇家には伊勢神宮という氏神があるが、足利将軍家には氏神が無い。幕府繁栄のために吉田神社を氏神にしては」と取り入った。兼倶は天照大神や八幡神を「大元尊神」として唯一神に集約し「吉田神社の大元尊神を拝めばすべての神を詣でたのと同じだけの霊験がある。」と喧伝した。
 この画期的な宗教は人気を集め、幕府も氏神にちょうど良いとして日野富子は将軍義政に氏神として認めさせた。ここから始まり、吉田神道は武家の神様として、豊臣秀吉の時代まで慣例的に崇められてきた。
 それゆえに秀吉は死後、大明神になった。
 これに倣って家康も吉田神道で葬儀を行うようになったが、これに異を唱えたのが僧正天海であった。天海は家康を、比叡山の守護神の日吉山王権現と同様の山王一実神道によって祀るのが本当の遺言だと主張した。
 結果、家康は秀吉同様の大明神でなく、大権現として神になった。

p719 かま風呂
 洛北 八瀬の里の名物かま風呂。古く壬申の乱で矢傷を受けた大海人皇子もここで傷を癒したという。へぇ。

p740 沢庵の喧嘩の振り方
 崇伝も認める沢庵の喧嘩のふっかけ方。
 紫衣事件で沢庵は公然と幕府に反旗を翻した。ただ、沢庵は個人的な喧嘩はしない。パフォーマンスによって世論を獲得してから勝負を挑む。
 個人で権力に挑んでも事実が公に出る前に握り唾される。しかし、世間を味方に付ければ権力者も簡単に隠蔽ができなくなる。この時、沢庵は「紫衣の権剥奪」について抗議はせず、ためらいなく紫衣を頂戴して堂々と規則違反をして見せた。事態を大問題にすることで、世論を巻き込んだのである。世論は常にどこか政権に反感がある。それをうまく煽れば、政権もすべて思い通りというわけにはいかなくなる。
 
 ここで学ぶ喧嘩のふっかけ方、正義を作る、喧嘩は自分一人の者ではなく世論ということにする。責任の希釈と、敵を社会悪に仕立てることがポイントである。
 あれ?これってよく女の子がやるやーつ??

p755 崇伝の目指した国家
 「戦無き法治国家」これが目指したものであろう。
 大きなことを成すには悪者が必要である。崇伝はまさに江戸幕府を作った悪者である。
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 天海が悪く書いてある。たしかに天海は加持祈祷を扱う胡散臭い人という評価もある。しかし、本気で胡散臭い人間はいないと思う。
 何らかの理由があって仮面をかぶるのが人間である。天海は…。
 堀和久さんの天海の小説を読む限りでは、あの人はいい人だった。崇伝がリアルの人間なら、天海がアイディアルの人間である。崇伝とは逆にあくまで宗教家としてのスタンスを貫いたのが天海である。物事は中庸が大事である。家康はそれがわかっていた。
 仕事のできる崇伝一人に任せていては、確かなシステムを作るだろうが、敵をたくさん作ってしまうだろう。バランスを取るために家康は天海を用意したのだろう。そうだとしたら家康の計算高さは本当にすごい。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 歴史
感想投稿日 : 2015年4月11日
読了日 : 2015年4月10日
本棚登録日 : 2015年4月10日

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