松浦さんのものを久しぶりに読んだ。大学生の時、同じ授業をとっている人に「今これ読んでる」と見せられたことがそういえばあった。このたび手に取ったのは文庫だが、単行本のデザインのほうがなんとなく好きだったりする。
仕掛けの多そうな小説だ、というのが最初の印象。
グラディスやらトリスティーンやらが出てくるところあたりまで来た時に、次々と提示される物語になかなか頭を切り替えられず読むのをあきらめそうになったが、個人的にはここらあたりからが面白いところであると考える。
話が進むにつれ、いくつかの支流が生成されてくる。セクシュアル・マイノリティについて語られる流れであったり、昌子と磯子の若い時からの関わりについて想起させる流れであったり、小説家(松浦さん自身を部分的に指す?)としての生活に関して語られる流れであったりである。これら一つ一つの挿話が醸し出す雰囲気は、松浦さんの小説やエッセイを既に読んだ者からすると「ああこの雰囲気だったな」と感じられるものであるが、それらの一つ一つの流れが湧いてはお互いに絡まり合ったりするような構成の文章を読んでいての印象は、「小説」としての魅力に非常に富んでいる、というものである。「小説」にしかこういうことはできない、と思わされる瞬間が読みながら何回かあった。
その中で小説家としての生活について語られる部分が一番私の心の琴線に触れた。「裏ヴァージョン」で語られる昌子は、若い時に小説で新人賞をとっているが、担当とそりが合わなかったりで職業作家として書くことはあきらめた人として登場する。以下は多少妄想的な勝手な読みになるが、これは「世間に認められなかった松浦理英子」という像が、松浦さんのどこかにあって、その像と向き合うような作業を松浦さんがしているののではないだろうかと思ったのである。「性」の問題について果敢に挑む作家として、松浦さんは周囲からの評価を得ている。が、小説家として一定の位置を得るまでは、自分のものが果たして認められるか、という不安も多少はあったのではないだろうか。そして、その時に考えていた「性」にまつわる事柄の思いの輪郭のようなものを40歳という節目を迎えるにあたり、整理しておきたかったのではないか、なんて思ったりする。昌子や磯子という媒体を借りて、松浦さんが自身の内面に迫っていっているように思える時があるのである。昌子も磯子も松浦さんの分身だと思える時があるのである。
そして、そのことはあくまで本流ではなく、支流としてさりげなく描かれる。韜晦という言葉がとても示唆的。小説家としての一つの達成点を見たような気がし、とても充実した時を味わえた気がする。
- 感想投稿日 : 2011年10月4日
- 読了日 : 2011年10月4日
- 本棚登録日 : 2011年10月4日
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