支那論 (文春学藝ライブラリー 歴史 1)

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  • 文藝春秋 (2013年10月18日発売)
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感想 : 4
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この名著が復刻されたことを素直に喜びたいところだが、本書のような歴史的洞察に満ちたリアルな中国認識が、戦後という空気の中でタブーのごとく忌避され続けてきたことを考えると、突如降ってわいたかに見える日中関係の悪化を契機にそれが俄かに注目を浴びたところで、表面的なブームとして消費されやがては忘れ去られるであろうことも半ば予想されてしまうだけに、手放しでは喜べないものがある。本書の解説に與那覇潤氏を配した編集者の軽薄なセンス(商業ジャーナリズムとしては卓抜なセンスと言うべきか)をみるにつけても、その意を強くせざるを得ない。

與那覇氏といえば、湖南の唐宋変革論(近世は西洋に先駆けて宋に始まったとする説)を自らの歴史ビジョン(=世界は中国化する)に都合よく図式的に当てはめた著書がベストセラーになった「気鋭の歴史学者」である。氏の歴史ビジョンとは、例えば本書の解説において、民間主導で社会をリードする中間層の形成を説いた福沢諭吉の「ミッヅルカラッス」論と、「封建の意(精神)を郡県に寓する(組み込む)」ことを唱えた明末清初の顧炎武の所説とを、両者の歴史的・社会的文脈を度外視して同列に論じ、後者が前者に先行することをもって、「維新以降の日本の近代化は・・・大陸では昔から論じられてきた歴史の一コマに過ぎぬ」と断じる類のものである。その與那覇氏が湖南にこと寄せて説く「同病相憐れむアジア主義」とは、有り体に言えば、日本と中国は所詮同じ穴のむじなであるが故に、お互いの欠点を認め合い仲良くやって行きましょうという、戦後の対中政策のあまりに陳腐なヴァリエーションに過ぎない。それが湖南と何の関係もないことは言うまでもない。

湖南の中国観が全て正しいと言う訳ではない。例えば、支那のような長い文化を有する国は政治を低級なものとみなし、芸術に傾くのは必然であり、むしろ欧米や日本より進歩しているのだとする点などは、支那の政治的停滞への失望感と支那への深い愛情との狭間で折り合いをつけるための強弁としか思えない。それは日本の大陸進出を正当化したなどと言うつまらぬ理由とは全く無縁な次元での湖南の限界であり、與那覇氏のような亜流を生む遠因でもある。

こうしたマイナーな瑕疵にもかかわらず、国家と社会の乖離や官吏のモラルの低さ、希薄な遵法精神、周辺諸民族との関係などについて、現代中国にもそっくりそのまま当てはまる鋭い指摘は百年前の時事論としては驚嘆に値し、今なおその価値を失ってない。京大東洋史での湖南の同僚であり、戦後完全に黙殺され続けた矢野仁一の「現代支那概論」も合わせて復刻されることを望みたい。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 未設定
感想投稿日 : 2023年12月27日
読了日 : 2014年11月29日
本棚登録日 : 2023年12月27日

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