シリーズもので、主人公たちのキャラで売ってる話なので、事件が解決にむけて動き出すまでが、登場人物たちのくだらない会話の応酬で、実に退屈。ストーリーは面白く、テーマも深いと思うのだけど、その良さが相殺されてしまうように感じるのは、個人の好みの問題なのかなぁ。
にしても、実に軽い。三浦しをんの「舟を編む」でも感じた、昨今の売れてる小説の、人物設定の借り物的印象、作者が生み出した創造物でなく、どこかTVでみかける俳優からの借用が見え隠れするのがイヤなのだが、この作者は、登場人物を設定するときに俳優を当てはめてイメージすると公言している(前作「ストロベリーナイト」の解説)のだから、なんともはやだ。それって手抜きと思うのは考えが古いのかなぁ。もう、ドラマのノベライズ、あるいは脚本、小説家の仕事でなく放送作家、脚本家の作品だと思って読むほうがよさそうだ。
そういう創作方法の何がいけないのかと言われると難しいのだけど。確かに、人物像がたやすく像を結んで本の中で生き生きと動いている感じはする。誰が誰だったかと登場人物が混乱することもない。その俳優とイメージが合えば、会話の調子も思い浮かべやすく感情移入もしやすい。が、それって俳優の力を勝手に借りて、うまいことやってないか?本当は文章で書いておかないと伝わらないことを読者の記憶に頼ってないか?人物の描写を省く調子で、周りの情景の描写もいっしょに端折ってないか?なにか、足りないように感じるのはそんな心配からくるんだろうなぁ。少なくとも自分のイメージする小説家の仕事ではないのだ。
- 感想投稿日 : 2012年10月25日
- 読了日 : 2012年10月22日
- 本棚登録日 : 2012年10月25日
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