プラトンを読むために

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  • Amazon.co.jp ・本 (243ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784000246125

作品紹介・あらすじ

議論の中断や先送り、絶えず勝利するソクラテスとその広長舌…、対話篇を読んだとき誰も気づく奇妙な特徴は、プラトンの哲学とどのような内的連関をもっているのだろうか?本書は、これらの諸特徴を手掛かりとしてプラトンの著述戦略を見さだめ、対話篇の新たな読解を大胆に提示する。シュライエルマッハー以降の近代的解釈を批判し、「書かれざる教説」を読解に構造的に繰り込みつつ、「形式」と「内容」との解釈学的連関に新たなダイナミズムを吹き込む。プラトンを読むことの面白さを的確に語る魅力的なプラトン哲学案内。

感想・レビュー・書評

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  • もし、あなたが、「自分の書いたものを公にする」という際に、公開の仕方でとまどったり、公開することそのものを踏みとどまろう、と思ったりすることがあるようでしたら、この本は、多くの手がかりを与えてくれるのではないでしょうか。

    ■ 時代をこえて、よみがえる、「知の伝達」における配慮

    多くの著作物を後世にのこすことになったプラトンですが、プラトンの対話篇を繰ってゆくと、あちこちに「空白」があり、それらの「空白」には、これまでのプラトン解釈では、うまく説明しきれないものがありますよ、とこの本の著者スレザークは指摘しています。

    そしてさらに、その「空白」は、≪解釈の余地がある≫、≪いろんな意味にとれる≫といった、テクスト解釈における「空白」とは、ちょっと違うものですよ、とスレザークは言います。詳しくはこの本で確認していただくとしましょう。ただ、それらの「空白」をはじめとして、プラトン対話篇のもつ奇妙な特質について、プラトン自身がどう考えていただろう、ということを探ってゆくと、こんなことがわかってくるのだ、といいます。「自らの言論を表明する (ソクラテスが、対話の相手に対して。)」「著作物を公にする (プラトンが、その著作物を手にとる私たちに対して。)」 という二重の動きのなかで、プラトンは、精妙な「留保」のシステムを構築することを自らに課していた。

    「留保」のシステム? ‥そうなのです。「留保」というテーマがこれほど切実であったプラトンの時代は、近現代とはひどく異なった状況であり、だからこそ、プラトンの「はからい」(知を公にする際の種々の手続きや配慮)が、奇妙に思われるのだ、とスレザークは説明します。これは、「≪賢者≫とはどんな人か、≪徳≫とはなにか、こういったことをめぐって、人々の考えることが、現代では、ある程度一定の思考の束におさまってくるものだが、プラトンの時代はそうではなかった」という意味ではなかったはずです。「知っていることを言わない」ということが、何のためであるのかがわかりにくくなっているのが、現代の状況である、とスレザークは指摘していたのだと思います。「他の人を陥れるため」? 「出し惜しみ」? たとえば、科学の特許制度では、先に公開した者が権利を有する、ということになるシステムがつくられています。出版資本主義の世界のなかで、私たちは、ものごとが無制約に公開されている、という状況にさらされすぎています。そんななか、「あえて公開の制約を設けたり、公開しなかったりする」ということが、どういうことなのか、わかりにくくなっている、ということなのではないでしょうか。

    したがって、「これまでに表明・公開してきた事柄」の履歴の積み重ねを土台とした信頼関係のモデルに対し、ここで対比されているのは、「どんなときに (どんな対話相手?) (どんな対話の状況文脈?) どのような留保をすべきか」という判断の積み重ねを土台とした徳、あるいは鋭戯のモデルです。
    ちょっとした発言をきっかけに議員を辞職したり、インターネット上の情報公開と、マスメディア経由での情報公開とで、ポリシーが変わらざるを得ないことにともなう受け手のとまどいがあったりなど、情報公開をめぐる「やきもき」は、すこぶる今日的な事象であると思われます。

    ■ 相手に対し、「包み開く」ことにするか「出し惜しむ」ことにするかのドラマ

    ご存知のとおり、プラトンの対話篇は、ソクラテスとかが出てきて、相手とやりとりをしている様子を収録したかのようなやつです。読むたびに、色々な細部が目にとまり、そこから色々なものを引き出してこれる、という滋味がある、とかそんなやつです。そして、「勇気とはなにか」「正義とはなにか」といったことの定義の内容にばかり注意をむけてしまうと、つまらなく
    みえてくるやつです。この対話篇が、相手に対し(したがって私たちに対しても)、知を「包み開く」ことにするか「出し惜しむ」ことにするかのドラマとして成り立っているのだ、と思うことにしたら、プラトンの思考の源泉に近づけるのではないでしょうか??  

    [ちなみに、「出し惜しむ」ことにする判断を積み重ねる場合のその動機と、結果生じるものをめぐって考察することが、ある意味この本の主たるテーマであるようです。「私秘教説(エソテリカ)」という言葉が登場します。これまでは、ことをあいまいに隠し知を公正に評価できぬ点で、「私秘教説」的解釈は評判が悪かった?? しかしスレザークは、おしなべて隠すのではなく、必要な場合に包み開かれることのできる仕組みがつくられている、と指摘することで、議論に新次元をもたらす?? 詳しくは、本書を参照してください。]

    さて、対話篇が、≪知を「包み開く」ことにするか「出し惜しむ」ことにするかのドラマ≫だといいました。
    ここには、確かに、ソクラテスが、対話の相手に、出来あいの「正しい事柄」の観念を植え付けることに成功するかしないか、といったタイプのドラマも含まれていると思います。そんなタイプのドラマにおいては、相手のリアクションを面白おかしく描くことや、対話の推移状況をスリリングに・サスペンスフルに描くことが眼目におかれるのでしょうか?? 下手をすればつまらなくなりがちなドラマの題材でしょうか?? しかしながら、プラトンの考えのなかでは、「相手になにがしかのことを想起させること」や、「相手の思考を導いてやること」自体が使命となるケースは、しかじかの場合である、ということが明確にたどれるらしく、出来あいの観念が事前に想定できるタイプの題材も、それなりに扱う甲斐のあったもののようです。

    とはいえ、ソクラテスが、「常に(←ここが大切、「時として」「状況に応じて」といったレベルではなく)」 対話の相手に、何がどのように伝わっているかをモニターし続ける緊張感、というドラマを演じているからこそ、対話篇は活き活きとしてくるのだ、と考えてみましょう。この本の著者スレザークは、≪「ふさわしい魂」との出会い≫が、対話伝達の情勢のなかで時局が「包み開き」へと傾く条件の1つに数えていたようでした。これを条件としてみる場合には、「果たして、ソクラテスは、ふさわしい魂と出会えるだろうか?」ということをめぐってのスリルを、私たちが味わうことが、醍醐味だ、ということになるでしょうか??  はてさて。

    ■ 「弁証術」だけではない
    対話篇が、ソクラテスの問答法を題材にしつつ、相手に応じた知の伝達方法や、知的な推論方法について、(知の技法として)具体的なディテール満載で紹介することを使命とするものである、とみなすことは、対話篇の特質をよくつかまえていることになるのかもしれません。言葉を定義する場面や、合意を重ねてゆく場面、話を結びあわせたり、分割したりする場面などを重ねてゆきながら、なにかしらの真実にせまろうとする対話の取り組み。緻密な推論をおこなうには、技がいる、という訳です。
    しかしながら、プラトンが積み重ねたであろう配慮は、「緻密な推論をおこなえるようになるための教則ビデオを作る」ような取り組みに必要な配慮と似たものでしょうか??  弁証術のありようを書き留めて後世にのこすことは、それだけでも偉業であるかもしれませんが、それだけでは、対話篇に仕掛けられた「飛翔」の機軸について、片方の翼しかみていないことになるかもしれません。対話篇には、もうひとつの翼があります――神話的な語り口の長ゼリフです。

    (「飛翔」? 翼?? ‥ありゃりゃ、別の本で読んだ事柄の記憶とごっちゃになってしまいました。すみません。)

    私は、たぶん『パイドロス』を読んだのだろうと思います。馬をひく2本の手綱? とか色んな話が曖昧な記憶のなかにあるままですが、このまま続けさせていただきます。

    朗々とした語り口で、聞き手の注意がとぎれないような話が語られる。‥『パイドロス』にも、そういった場面が何箇所かあります。想定として、聞き手は、ある種うっとりしながら、音楽を聴くときのように、話に耳を傾けます。(それらの話をもとに、しかじかのテーマについての判断をくだす、という目的があってのことですが。) さて、それでは、プラトンは、そのような「聞き手が、注意ぶかく耳を傾ける」という状況が、どのような展開のもとに産まれたものだ、ということにしていたでしょう。そのような状況が産出されるまでには、しかるべきお膳立てが必要です。たとえば、具体的に、じゃぁ、ふたりで一緒にどこどこへ行って、川のほとりに腰かけて話をするとしようか、など、口説きの段取りもあるわけです。

    『パイドロス』は、≪対話が、包み開かれるハナシに対し、それに「ふさわしい魂」(受けとり手)を必要とするものである≫というケースを確認するのには格好の題材であるかもしれません。ここでのドラマは、「真に恋する者はだれか?」という問いのなかの、「真」をさぐる動きにあるということでしょうか。うっとりしながら、音楽を聴くときのような聞き手の態度は、「恋する者」がテーマであるだけに、相乗効果がある??  しかしながら、ここでスリルを感じるべきは、何をもって、「神話的長ゼリフ」の登場がよしとされたか、GOサインが出たか、の面であるように私は思います。(あるソロパートの開始をデザインする、音楽監督としてのプラトン。)

    脱線するような仕方で題材を得ましたが、以上のような側面、聞き手の注意をつかむ(:読み手の注意をもつかむ)、対話のたたみかけを通じ繰り出されるリズムのようなものを、もう一つの翼として、想定しておこう、というわけです。それなしでは、対話に生命が宿らない、そういうものであるかもしれませんし、「知」への取り組みを好きと思える決め手となるような語り方がある、ということであるかもしれません。詩風がたちのぼる瞬間をゆるす、ということであるかもしれません。私がこれらの本と出会ったのが、ドラマについて探っていた頃であったので、こういった面に肩入れした読み方をしたかもしれません。とはいえ、「戯れに」恋するのと、「真剣に」恋するのとで、果たして何かが違うのか、ただのアフェアーではないのか、といった『パイロドス』の扱う議論から、スレザークは、著述家としてのプラトンの姿勢に関して、多くのものを引き出している箇所があったように思います。著述家であるのに、場合によって「包み開きたくない」という判断を行うことが、一見すると奇妙なことに思われるのですが、スレザークとともに「真剣に」考えをすすめてゆくと、そんな判断が生じてくる源泉についても、なにか手がかりがあるかもしれません。

    ■ 「錠前」があるということなのだろうか?
    弁証術にしろ、神話的な語りにしろ、プラトンが自らの著述をつうじてこしらえ姿を与えたものだ、という意味で、プラトンの著作対話篇のうえに感じられるものは、なにより、「文芸のなかで生きられた時間」であるというべきでしょう。あるいは、「著作家としての芸術的な遊戯本能」がここに見出される、ということでしょうか。

    さて、いま私がひきあいにだしました、「注意のとぎれない語り口」などに関して、ただ文芸上の技巧として素晴らしい(かどうか)、といったことでは済まない面があることを、スレザークの著述へと戻りつつ確認しておこうと思います。

    スレザークの言葉では、「知性的な能力だけでは不十分であり、要求されているのは、伝えられるべきことがらとそれが伝えられるべき魂とのあいだの内的な親近性である。」となります。語り手のリズムを感受できる聞き手(もしくは読み手)は、内的な親近性の最初の手がかりを得ている、と言うことを考えたわけです。

    すでに、「ちゃんとした伝達が可能であるか、そうでないか」(そうでないのだと知って絶望をするのか?)ということ自体をテーマの主要素に抱えている対話篇であるわけですから、技巧として済ませられないし、ただの技巧を下位のものと見なすような考えや、弁証術を(技巧的な)弁論術から区別しようとする考えが、ひきあいにだされたりしている以上は、プラトン自身の考えを探らざるを得ない、ということになります。

    そして、≪プラトン自身の考えが、対話篇というかたちで表明されている、対話篇というフォーマットの内側から出発することでしか、たどりつけないものだ、ということになっている≫ という事実にいよいよ私たちは直面するわけです。

    おそらくこういうことでよいのだろうと私は考えています。まず、ここには、≪「朗々とした語りなどの形をとってでてくるもの」の内容が、プラトン自身の考えであるかどうか≫という緊張感(認知葛藤)があります。ソクラテスの登場する対話篇をこしらえるなかで、徐々に「プラトン自身の考え」もかたまってきて、それが前面にでてきたもの、として長セリフを見なした場合に、対話篇は、≪プラトンが自身の考えを公にした場合に、いったい何を(どんなリアクションを)世の中に産出することになるであろうか≫というドラマを生き始めます。このドラマは、「言葉を定義してからでないと話がうまくすべりださない」「ただ命題がひとり歩きしては困る」といった次元での配慮を重ねつつ、「真実にせまるということはどういうことであろうか」という面での配慮にも及ぶ思考を扱うことになります。そして、最終的に、それらのしかじかの緊張感やリズムを手にしつつ、ドラマは≪私たちが、これらの言明や著作物との出会いをどう生きるか≫というドラマへとじかに引き継がれます。

    はじめのほうで、プラトンの構築した「留保」の体系は、二重になっている、といいました。「ソクラテスが、対話相手に対しておこなう留保」と「プラトンが、私たちに対しておこなう留保」です。後者に注意を移してみましょう。

    「対話篇はいつも同じことばかりを語るわけではない。新しく読みなおせば、新しい意味成層が現れて、それによって適切な読者の立てる問いに答えるからである。」 対話篇形式の書物には、こうした積極的な効能がある、とみることができるとスレザークはいいいます。テクストが私たちに働きかけをおこなう面ですね。≪そして、テクストが私たちに働きかけをおこなうのをやめる場合がある≫。そこ(「留保」の動機と源泉)に注目してみよう、という話のあることが、スレザークの議論が新次元を秘めていると思わせるゆえんであるかもしれません。

    ‥ここまでで、すでに随分おおく言葉を並べてしまいました。
    しかし、まだ、ネタバレはしていないだろうと私は考えております。

    冒頭に述べさせていただいたように、「自分の考えを公にすること」をめぐるとまどいや迷いとともにある人々に向け、書き始めましたので、その部分に関係のある動きの箇所をあとひとつ取り出してきて、私の感想文を終えようと思います。

    引用を2つ添えさせていただきました。

    1つめ。プラトンの著作物を、読者の関心に応じてその姿をあらわすものだとみなした場合のお話です。――≪ プラトンの対話篇で、最も重要なことは、意図して、少数のただ特定の読者タイプのみが理解できるように書かれている。≫ ホントかウソか?

    言論や著作物の内容に関して、「ふさわしい相手にだけ、内容が包み開かれるのがよい」というようなケースでは、≪部屋の前に錠前をおろしておく≫ というような喩えをひきあいに出しつつ、部屋のあることに気づかなかった人には、そのまま通り過ぎてしまってもらえばいい、という考え方のあることが紹介されます。

    しかし、ことに処するにあたって、私たちが、いかに「解釈学的」なパラダイムの影響を強く受けているかへと、スレザークは私たちの注意をさしむけます。(「錠前」を見つけてそれを開けることが、全く読み手にゆだねられている。) 「錠前」を見つけたが、開けられなかったら? あるいは、はじめから鍵のかかっていない錠前だ、ということに気づけなかったのだとしたら?

    これらの問いは、ぜひ本書のなかで確かめてみてください。(私の記憶の違っている点についてはお許しください。)

    2つめ。
    大きな対立項としてみたときに、「自分の知を公共広場に陳列して、まるで商売人のように大声で吹聴し、できるだけ大勢の人たちに売りつけようとする」が、「聴き手の要望や教育程度などを考慮しない」ソフィストたちの態度と比べたら、知の公表に制約を設けたり、留保をしたりする面を同じくする、「私秘教説」的な態度のほうに、著者スレザークは、親近性を感じているように読める箇所でした。

    しかし、そこにもなかなか複雑なものがあり、スレザークは、こんな「もっと別の態度」がありうるのでないか、といったことも書いています。≪たとえば、プラトンは、できるだけ多くの人たちが、ただししかるべき準備を整えたうえで、彼の「部屋」に、しかも一番奥までも入ってきてくれるよう、大いに望んだ≫のではないだろうか、と。

    ただ、スレザーク自身が、「プラトンの著述をどう読めるか」をめぐる愉しみよりも、「プラトンの為したこと / 著述家としての姿勢」を探る愉しみに照準をあわせていることは明白です。(さきに、「留保」の動機と源泉への注目が軸となる、という言葉で言ったのはこの点です。) そして、この照準のあわせかたそのものが、プラトンの考えへと分け入ってみよう、とする試みのなかで、おのずと成り立ってきた様子であります。

    「読み手は自分自身を読解に繰り入れる」、ということですから、私は、謎は謎のまま、奇妙な点は奇妙な点のままで、いったんよいことにして、この本との出会いを生きた自分の足元へ戻ってこようと思います。

    ■ マイクロブログの時代に
    スレザークがこの本を書いたのがいつだったかメモするのを忘れていました。書物が手元にないと、レビューや感想を書くのにもひと苦労です。‥と昔だったら書くところでした。

    いまだったら、図書館へ戻らなくても、インターネット検索で色々なことが調べられます。こうした無制約な情報公開の動きの渦巻く時代のなか、本書のうえでも、書かれた当時の光輝とは違ったところに輝きがみえてくるかもしれません。

    ≪とっさに思うのは、もっと程々であってほしいということ、もっとふつうであってほしいということである。≫ 〔p.15 のあたり〕

    ↑ どんな文脈で書かれていたのか、忘れてしまいました(:おそらく、「プラトンの為したことが、いまの人の感覚と違っていて奇妙に思われる」「奇妙な迷走の姿をつづって何も解明されないままにするより、正しいのはこれだ、と思うことを、平明に打ち明けてほしい」といった話だったのでないかと思います)。ですが、いまこの言葉だけを読んだときに、まったく逆の意味で読んでいる自分がいました――正しいのはこれだ、と思うことを、常に万人向けに表明し続けなければならない、ということは異常な事態ではないか。平明な打ち明け話をたれ流し続け、公開履歴や閲覧数を重ね増やしてゆく、ということが何ほどのものであろう。いまこそ、「留保」の技を磨きあげて鋭戯の域に達したプラトンの英知をひもとくときではないだろうか。

    ‥そう。 プラトンの為した一見すると奇妙に思われる工夫の数々が、じんじんと「これこそが求められていた施術だ」と思われるマッサージのように私たちの身体へ届く時代がやってきた、ということであるかもしれません。

    ‥いいえ。 プラトンの書物とそれを解明しようとする取り組みについて、「マイクロブログの時代を生き抜く処方箋」であるかのようにうたってまつりあげることこそが、もっともプラトン的でない所作であるかもしれません。

    書きそびれていましたが、本書は、その文体のうえでも、緻密さや丹念さを愉しめるものとなっています。スレザークの取り組みを日本で知ることのできるきっかけを与えてくださった訳者の方に感謝いたします。スレザーク自身は、プラトンの仕事を検証する際に、その真摯な取り組みという側面への親近性を表明していたように感じますが、その取り組みの結果、明らかになったプラトン思想のうえで、(真実との役割分担を得たうえでの) 「戯れ」の占める位置もまた、想像以上に大きいようです。もし、「戯れ」を戯れのままで享受できるのだとしたら、それはそれでひとつの幸せであるかもしれません。

    ≪書物をめぐって、そして、インターネット上で公開されるテキストをめぐって、どこに「戯れ」があり、どこに「真摯なもの・真相」があるとみれば、楽しくなるだろうか。≫

    この本とともにあって、引き続き、考えてみたいな、と思うことは、以上のようなことです。

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