ルポエッセイ 感じて歩く

著者 :
  • 岩波書店
4.25
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感想 : 11
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  • Amazon.co.jp ・本 (248ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784000258418

作品紹介・あらすじ

「シーンレス」にとって、路上は危険いっぱいの「戦場」だ。でも歩くことは、社会とつながることであり、自分の存在そのものを感じる手段でもある。街の賑わい、草木の揺れる音、小鳥の囀り、人々の言葉、さまざまな風や季節の匂いを愉しく感じながら、今日も歩く。白杖を片手に、あるいは盲導犬やハイテク歩行器具、道行く人たちの助けに支えられながら。障がいの有無を超えて、誰もが歩きやすい=生きやすい社会とは何かを体当たりで綴る本格ルポエッセイ。

感想・レビュー・書評

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  • 読売新聞2012819掲載
    読売新聞2021418掲載

  • 思索

  • 全盲者の日々の行動のリアルを語るルポエッセイ。木々を渡る風の音でそれが何の木か分かる感覚のするどさに感動し、それでも危険が一杯の今の周辺環境に考えさせられる。

  • 視覚障害の三宮さんが、日々感じる視えないことを綴る。自らを「シーンレス」と表現し、白い杖の感覚や点字ブロックの効用などを健常者にもわかりやすく伝えてくれる。

  • 世界の見方が変わる本。三宮さんの文章は清々しい。ぜひ広く読んでほしい。

  • 著者が全盲だとは思えないほど、自分の知っている世界の様子が書かれている。
    視覚に障害がある人は、その人たちなりの世界があると巻末の対談でも書かれているけれど、これは別のところでも読んだ。
    自分たちなりの、素晴らしい文化を、彼らは持っている。
    けれども、それと、外出が困難であることとは別の問題。
    知ってて困るだろうなって思っていたけれど、予想以上だったことと。
    知らないことがたくさんありました。
    最終的に大事なのは、周囲の人が、自分とは違う条件で困っている人を手伝えること、と。それはどんな障害でも、重たい荷物の高齢者でも、若いけれども何かが大変な人でも、変わらない、同じ社会にいるっていう意識なんだろうな。

    シーンレス、とは、全盲を指す著者の造語。障害ではなく、ただそういう状態であるととらえて、世間に出る妨げにしたくない意思がつよく現れている。

    白杖は消耗品なので年一くらいで買い換えるし、自宅、仕事場、折れたときの予備用……など費用もかさむ。
    だから役所などに杖の補助金を申請することも出来るのだけれど、条件が厳しい上に、目が見えなくて役所まで行くことも、書類を記入することも困難な人に対して何度も役所に来なければいけない手続きになっている。そのせいで、大半の人は、自費で買っているそうな。
    どうしてそう融通がきかない仕組みなんだ……

    しかも、白杖は意外と折れやすい。通行人や、キャリーバッグにぶつかっただけで折れる。
    けれど、杖が折れても弁償もせずに行ってしまう人が多い。杖は、その人にとっての目なのに。
    私にとって、狭い空間と、屋根のない広い空間の区別は簡単につけられるし、歩けるけれども、シーンレスの人にとって、世界は、まず杖の届く範囲。たかだか120センチ程度の杖。
    そこから先は何の障害物があるかわからないから、簡単に踏み出せない領域。
    自分の周り、杖の届く範囲程度をようやく認識出来る。

    それなのに、
    「見えないんだから人より気をつけろ」とか、
    「目が見えないからって、避けてもらえると考えるのは甘い」と言う人がいると。
    どうしてそんなことを言えるのか、その人は病気も怪我もしたことがないのか。想像力が欠片もないのか。
    見えないんだから、気をつけようがない……
    盲導犬を連れている人に対して
    「使い捨てにして」
    と、言う人がいると。
    彼らがどれだけのパートナーシップを築き、世話をし、引退のときには自分の目を、半身と別れる辛さに遭っていることを考えもしないで。
    どれほど愛情と職業意識と誇り高さを持って、育てられているのか、引退後の面倒を見られているのか、そして盲導犬自身が、仕事を楽しんで出来るエリートなのかを知らないで。

    常に耳は音源定位をしているから、外出時は常時緊張状態。
    駅のホームは点字ブロックがあればマシ。
    点字ブロックは、健常者が「黄色い線よりお下がりください」と言われる位置にあって危険スレスレなのに、設置していないホームもある。その場合は、ホームの端に杖をふれさせてギリギリで歩く恐怖。
    ホームドアが設置されてよかったと思っていれば、そのドア口の前にしか点字ブロックがない。
    「最低限の安全が保障された」から、で済ませてしまっていて、シーンレスが他の乗客と同じように交通機関を使うための点字ブロックが除去されるのは、話が違う。

    ホームに止まる電車の行き先も、何車両あるのかも、アナウンスによってはわからない。ドア数もわからない。車両数によっては、降りる駅での場処が違ってしまうので、自分の位置がつかめなくて迷子になってしまう。
    ホームの構造による音の反響、ラッシュ時の人の足音で頼りになる音が聞き取れない。
    振替輸送時に、駅員も、道の警備員も、交番の警察官も、駅外の乗り換え駅までの案内は「職務でないから」してくれない。
    最近はタッチパネル式の券売機が増えているけれど、タッチパネルではボタンの感触、運賃の点字がわからなくて切符が買えない。
    トイレの洗浄レバーやらスイッチも、多種多様でわからない。

    道を歩けば、自転車にぶつかる、看板にぶつかる、道の端が放置自転車などでわからない=道をまっすぐに歩いているのか、曲がりたい角は何処にあるのかもわからない。
    道端に出ている看板は危ないと思っていたけれど、それ以前の問題として、道の端という目印を必要としている人がいると。

    常に誰かに手伝ってもらえるわけでもないし、自分で出来ることを増やしたい。自立=誰にも頼らない迷惑をかけないという意味にとらえられている。
    そうではなく、自分のしたいことをするための手段が用意されていてほしい、社会に参加したい。
    そして、手伝ってもらうけれども、自分たちがお返しすることも出来る。
    シーンレスだからこそ、耳や鼻で季節や景色を知る。その知識を分け合うことは、健常者の世界をも豊かにする。

    意外なのは、エスカレーターは前方から人が来ないので、安全な乗り物。
    エレベーターはドアが閉まるタイミングがわからなくて挟まったり、人が乗降するのに合わせられなくて危険だそうだ。

    危険なときや、困っているとき、最終的に、助かるのは、人による声かけ。
    ただし、声をかけるときは、タイミングをなるべく見て欲しい。
    階段の下り口や、電車に乗り込もうとしているときなど、耳を澄ませて集中しているときに声をかけると、転落したり、混乱してしまう。

    お手伝いで案内を申し出るときは、途中で離すとかえって現在位置を失ってしまうから「何処まではお手伝い出来ます。それでもいいですか?」と聞いてくれると嬉しいと。
    別れるときは、出来たら次の案内者を探して引き継いでもらえると助かる。
    途中で放り出されて、それが道の真中だったりすると、目印も何もなくて、そこから一歩も動けなくなってしまう。
    だから、自分で行った方が困難でも確実なときには、せっかくの案内を断るかも知れないけれど、感謝している。ものすごい集中して歩いているから、断り方がぶっきらぼうになってしまうかも知れないけれど、そういう状況にあることを知って欲しい。



    試しに、信号待ちのときに目をつむってみたけれど、車の音も、歩行者が歩き出す音も方角も、聞き分けが難しかった。
    私の耳も鼻も大して鋭くないのもあるけれども、かつて弟に言われたことを思い出す。
    「車の運転がヘタな奴は、歩くのもヘタだ」
    周囲の状況が把握出来ていない、感覚をきちんと使えていないと。
    人間が外界を認識するとき、その80%は視界情報らしいけれど、手先の感覚や耳を頼りにして歩くということは、恐ろしく神経を消耗するのね……
    「助けてやろう」ではなく、「お手伝いします」の心と、相手の状況を想像して、想像が足りなくても、理解しようとする努力。
    想像したって知らないことは結局わからないのだから、教えてね、って、素直に出来るといいんだろうなあ。
    そして外国のように「May I help you?」って、当たり前に言えるように。

  • 「目が見えない」と言う事について、具体的に感じる事が出来たような気がする。足元にある線の「内と外」という感覚や方向など、普段気にせずに居た事の重要性を知る。

  • 四歳で視力を失い「シーンレス」となった著者のルポエッセイ。自由にあるいて移動する--移動の自由は人間の自由の根幹の一つ。人間の動きは社会と密接にかかわっている。白杖で歩く技術の習得、路上の危険などその現実が著者の体を経由した文章で伝わってくる。

    筆者は表題の通り「感じて歩く」。シーンレスの三人に二人が線路転落経験があるという指摘には愕然とするし、偏見には心が痛む。しかし著者は適度な毒とユーモアで包み込む。想像力や共生といった言葉をもう一度点検したい。★4


    ・岩波書店によるmoreinfo→ http://www.iwanami.co.jp/cgi-bin/isearch?isbn=ISBN978-4-00-025841-8

    ・『週刊文春』の著者インタビュー http://shukan.bunshun.jp/articles/-/1557

  • 4歳で失明した麻由子さんのエッセイは、優しい心根と素晴らしい感受性、そして理性的な視点で鋭く明快に描く筆力が好きです。
    私が知らない「シーンレス」の世界の案内人!

  • 岩波ジュニア新書「目を閉じて心開いて」に勇気を貰ったで、この本でもきっとそうだと思っています。

    岩波書店のPR
    「「シーンレス」にとって、路上はさまざまな危険にあふれた「戦場」。でも歩くことは社会とつながることであり、生きることそのものでもある。白杖を片手に、あるいは盲導犬やハイテク歩行器具、道行く人に助けられながら、今日も歩く。障がいの有無を越えて誰もが歩きやすい=生きやすい社会とは何かを体当たりで綴るルポエッセイ。」

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著者プロフィール

エッセイスト。東京都生まれ。
高校時代、米ベンロマンド・ハイスクールに留学。上智大学文学部フランス文学科卒業。同大学院博士前期課程修了、修士号取得。現在は外資系通信社で報道翻訳に従事。
デビュー作『鳥が教えてくれた空』(NHK出版/集英社文庫)で第2回NHK学園「自分史文学賞」大賞を、『そっと耳を澄ませば』(NHK出版/集英社文庫)で第49回日本エッセイストクラブ賞を受賞。そのほか、第2回サフラン賞、第11回音の匠賞、第46回点字毎日文化賞などを受賞。
主な著書に『ルポエッセイ 感じて歩く』(岩波書店)、『ロング・ドリーム──願いは叶う』『世界でただ一つの読書』『四季を詠む──365日の体感』(以上、集英社文庫)、『おいしい おと』『でんしゃはうたう』『かぜフーホッホ』『センス・オブ・何だあ?』(以上、福音館書店)などがある。
失明直後からピアノ、リトミック、ソルフェージュなどのレッスンを開始。複数の専門教師のレッスンを継続し、現在はパリ国立高等音楽院教授の上田晴子氏に師事。大学・大学院時代は学内の古楽器アンサンブルでリコーダーとチェンバロを担当。新井満氏との合作で『この町で』を作曲したほか、講演やトークコンサートなど幅広く活動を続けている。
趣味はバードリスニング。

「2022年 『フランツ・リスト 深音の伝道師』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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