教養としての冤罪論

著者 :
  • 岩波書店
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  • Amazon.co.jp ・本 (272ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784000259415

作品紹介・あらすじ

裁判員制度の導入によって市民が刑事裁判をする世の中になった。いかにしたら市民は誤判を避けることができるのか?元裁判官が冤罪を日常的感覚で認識することができる新たな方法論を開示。戦後の冤罪事件を通覧し、その特徴と発生メカニズムをイメージとしてわかりやすく提示する。

感想・レビュー・書評

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  • 冤罪について知ることは市民のリベラルアーツである。自白は警察や検察のストーリーに沿った作文になる。自白に頼ることは警察不祥事の温床になる。

  • 裁判員制度が施行されて5年が経過する(2014年5月21日現在)。この間、4万8000人が裁判員として審理に参加したという。裁判員に選ばれる確率は、住んでいる場所によって幾分の差はあるが、法務省によれば1年あたり有権者の約0.01%程度である。べらぼうに高くはないが、天文学的に低いわけでもない。

    裁判員制度は、国民の司法参加を通じて、裁判を身近に感じさせ、司法への理解を高めるのが目的とされている。
    対象となるのは、殺人・強盗・強盗致死傷・傷害致死など、死刑や無期懲役が科せられうる「重い」刑事事件である。
    もちろん、被告人が有罪とされる場合も無罪とされる場合もありうる。

    本書は冤罪を主眼に置く。
    「市民感覚」を裁判に持ち込むことで、無実の人が罪を被せられることを防ぐという視点である。なぜ市民感覚が重要かといえば、それは「明日は我が身」であるからである。「冤」という字はそもそも、兎が捕らわれて外へ出られない状態を示す。弱い立場のものが強いものに自由を奪われるという状況を、弱い者の視線から見たらどう判断できるか、ということだろう。
    これはいささか新鮮な観点だった。自分の中にも被告はどちらかといえば有罪であるという先入観があったということか。

    「刑事裁判はすべて冤罪である」「すべての自白は強要である」といった扇情的な見出しもあるが、内容的にはさほど極端ではない。刑事裁判において冤罪のリスクはあるものであるし、多くの場合、自白は捜査官の(強制や拷問を除くとはいえ)働きかけによってなされる。ここでいう「すべて」はすべての事例でその「可能性」があることを考慮すべきだというだろう。

    事件を考える上で、著者は「犯罪の構成図」と「証拠の配置図」(著者によればC & Pダイアグラム(*何の略なのかはきちんとしめされていない。crime & proof?))を考えるよう提唱している。
    要は、犯罪において、いわゆる「5W1H(だれが、いつ、どこで、誰に、何を、どのように、したのか)」がどういった構成になっており、それに対する証拠はあるかどうかをはっきりさせることである。
    著者は具体的な事例をいくつか挙げて、どのような犯罪に対して、どういった証拠が示されて、有罪・無罪が決められたのかを示している。
    全般として、犯罪をきちんと実証することは実はかなり難しいことなのだなという印象である。もちろん、例として挙げられているのが、冤罪性の高い、問題の多い事件ということはあるのだろうが。
    いつでも「強い」物証が存在すればよいが、そうでない場合には自白が大きな役割を果たすことになる。だが、「自白」は往々にして、捜査官とのやりとりにおいてなされるものである。見込み操作や別件逮捕と自白が絡み合った場合には、冤罪の可能性をよくよく考慮する必要があるという。
    個々の事例に取り組むことが目的ではないため、1つの事件に非常に深く踏み込むわけではないが、さまざまな冤罪が挙げられることで、感覚的に、なるほど、このようにして冤罪が成立することがあるのだな、と実感として感じられる点が利点である。

    死刑が科せられるような事件では、裁判で無罪となるか有罪となるかで大きな差が出る。極端な場合、無実の者を死刑にすることになるのか、真犯人を野に放つことになるのか、その二者択一となってしまう。
    著者は冤罪性が少しでも疑われるのであれば、極刑執行は避けるべきであり、裁判のあり方自体が変わっていくべきだと説いている。このあたりは一般市民がどうこうできることではなく、法曹界に向けた提言ということになろうが、市民の側もその視点を持つことは重要なことだろう。


    *とはいえ、自分がもしも裁判員候補になったら、と思うと、拘束時間の長さなど、いろいろ考えると二の足を踏むところはありますねぇ・・・。実際に候補になってみないとわからないところではありますが。

  • ふむ

  • 裁判員になったときに冤罪を生み出さないための手引書・・・かな。

    過去の多くの冤罪事件を素材としており,その多さを知るだけでも,裁判員になるかもしれない読者にとって有益だと思う。

    裁判員制度を「市民の自由と権利を同じ市民が守る」とする認識や,秘密の暴露のない自供は証拠として評価すべきではないとの意見,目撃者の「見間違え率」は驚くほど高いという事実の指摘,職業裁判官に引きずられないほうがいいとの助言など,有益な示唆に富む。
    しかも,冤罪被害者の救済や冤罪撲滅を声高に叫ぶのではなく,淡々と書かれているので,説得力が強い。

    致命的に残念なのは,用語が難しいこと。
    法律用語はしかたがないにしても,哲学用語? 論理学用語? が頻出して,読む通すのに骨が折れた。
    もっとわかりやすく書いて,多くの人がすらすら読めるようでないと,結局は裁判員裁判の役に立たないことになるよなぁ。(-"-) 

    本の主題とはそれるが・・・
    DNA鑑定の発展を受けて,米国では,DNA鑑定開始前の死刑囚などについて再検証を行い,その結果,なんと300人以上! が釈放されているという。
    日本では,再検証をしようという動きなど全くない。恥ずかしいことだと思う。

  • 裁判員制度によって、市民が刑事裁判を行う時代になった。裁く立場の市民は、市民感覚だけで裁判を行うことになっている。その市民感覚を裁判に持ち込むことが必要な、重要な理由は「冤罪感覚」にあるという前提から、裁判員になりうるすべての市民のための基礎的教養として、過去の冤罪の事例研究、冤罪が発生する仕組み、冤罪によって生じる結果としての不正義を詳しく検証して紹介している。
    いかなる事件の裁判においても、有罪・無罪の判断要素として、その事件に含まれる冤罪性リスクが考慮されなければならない。刑事裁判では、結論をだすまでに、冤罪性リスクによる葛藤が生じなければいけない。だからこそ、市民は冤罪性リスクを知らなければならない。
    別件逮捕、見込み捜査、そして原則としてすべて自白には強要の要素が入っているという事実。DNA判定等科学捜査といわれるものの限界と、それらが覆された上で冤罪と再判断された事件など、これらを知ったうえで市民は裁判に参加すべきだと思う。
    なぜなら、職業裁判官でない市民が裁判に参加する理由は、市民感覚、冤罪感覚であるのだから。

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著者プロフィール

1959年東京都生まれ。東京大学法学部卒。東京地裁、大阪地裁などの裁判官を務め、現在は弁護士として活動。裁判官時代には、官民交流で、最高裁から民間企業に派遣され、1年間、三井住友海上火災保険に出向勤務した。著書に『司法殺人』(講談社)、『死刑と正義』(講談社現代新書)、『司法権力の内幕』(ちくま新書)、『教養としての冤罪論』(岩波書店)ほかがある。

「2015年 『虚構の法治国家』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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