- Amazon.co.jp ・本 (129ページ)
- / ISBN・EAN: 9784000264266
作品紹介・あらすじ
近代社会は身近/生命の周りに、あるいはこの概念を媒介としながら、どのような装置や戦略を組み立ててきたのか。そのなかで、我々は身体/生命をいかに語り、その像は社会編成のあり方とどのような関係を切り結んできたのか。フーコーが「生‐権力」と名指したものを、医療と社会のダイナミズムに依拠しながら明らかにする。
感想・レビュー・書評
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【目次】
はじめに [iii-vi]
目次 [vii-viii]
I 身体/生命はどう語られるのか 001
第1章 暫定的なスケッチ 001
分離と結合の循環 焦げたプティング 「転換」というメカニズム 間身体性 性愛の経験 暫定的なスケッチ
第2章 身体/生命の文化的差異 012
異なる身体観/生命観 脳死議論と身体観/生命観 ポストコロニアリズムと反‐脳死論 逆オリエンタリズム批判
II 生‐権力の系譜 019
第1章 王の身体の変容 019
「生‐権力」とは何か もう一つの身体 レスとニイカング――シルック族の儀礼 王の身体 不死なる王 殺される王 王の二つの身体 「政治的身体」とは何か 国富の源泉としての「人口」 「第一の下僕」としての王 外在性から内在性へ まなざしの反転
第2章 死の医療化 037
啓蒙主義の医療倫理 ヒポクラテスの誓い physicianの誕生 キリスト教 ヨハン・ペーター・フランクと「医療ポリツァイ」 「死の医療化――アポリアの克服」 早すぎる埋葬 人はいつ死んだと言えるのか 脳死は人の死ではない 死生‐権力との医療化
第3章 individualとしての身体/生命 059
ビシャの生命観 屍体解剖 死が照らし出す生命 総合する力としての生命 individualとしての身体/生命 屍体と革命 リソーとビシャ 頭としての王 ギロチンをめぐって 総力戦の条件
第4章 こころの在り処 080
上昇するベクトル ピネル カント 公共性の喪失としての狂気 道徳療法
第5章 「種」としての身体/生命 089
ショーペンハウアーとビシャ 性と生殖の医療化 変質(退化)という不安――ルソー モレル グリージンガー さらなる不可分性の原理 狂気の物象化 「種」における死としての変質 「種」から剥がれおちる性 フロイト
第6章 身体/生命をどう語るべきか 107
もう一つの大量虐殺 それはいかにして始まったのか 生命観の書き換え 脳死はなぜ人の死なのか 死への権利 私は訴える
III 基本文献案内 119
あとがき [127-129]詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
フーコーが提出した「生‐権力」という概念、その基盤には社会が人間の身体/生命をどのように捉えているのかがあるのだが、本書はその系譜(“死”の揺らぎ)をたどっている。脳死問題から始まり脳死問題に回帰していく本書の中で、フーコーが肯定した「死への権利」、つまり安楽死・尊厳死はたしかに生‐権力に対する抵抗にはなるが、それは、抵抗しようとした生権力のメカニズムと共振しうるという市野川氏の指摘はまさにその通りで、投げかけられているのはフーコーを乗り越えること、と言えばやはり目眩が始まる。明確なことは何も打ち出せず、ひたすら要検討スタイル。ただ乗り越えるバネとして、本書の系譜は必ず役に立ちうるであろう。
余談だが、個人的に、ビシャの主張した、「有機的生命」と「動物的生命」のうち前者の機能停止こそが死であって、後者の機能停止は死ではないという話から、それをルソーの社会契約論にみる政治体に関する記述、つまり国王からその権力を剥奪し、彼に優越する近代民主制に対応させたのはなかなかアクロバティックだと思う。 -
フーコーの生‐権力論を下敷きに、西洋近代医学史を検討。頁数は決して多くないのに、力のこもった筆致と丹念な作業に惹きつけられる(単なるファンかも(^^))。近代(現代)医学に違和感や危機感を感じる人には一読の価値大アリ。