外套・鼻 (岩波文庫 赤 605-3)

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  • Amazon.co.jp ・本 (120ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784003260531

感想・レビュー・書評

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  • 個人的には外套の方が面白い。


    外套
    ロシアにおける愛すべき庶民の悲哀が描かれていて、そこにある人々の悲哀を外套をモチーフにはっきり描く、抽象的であるというより象徴的に主人公を描いている。


    少し調子づいている主人公の鼻を折るかのように、鼻がある日突然なくなる。
    鼻がなくても、死なないが、まさにメンツは丸潰れ。
    人間にとっての尊厳はこんな些細なもので組み立てられているんだと警告をしているのかもしれない。

  • 非常に話も短いため、簡単にゴーゴリの作品に触れたかった自分としては大正解の作品だった。

  • ジュンパ•ラヒリの『その名にちなんで』の主人公がゴーゴリと名付けられてグレかけた話から、読むことにした。

    Wikipediaから。
    “本作は近代ロシア文学の先駆けとなり、多くのロシア作家に影響を与えた。ドストエフスキーが、「我々は皆ゴーゴリの『外套』から生まれ出でたのだ」と語ったと言われるが、実際にはフランスの外交官ヴォギュエの言葉とされる。”

    でも、世間では、(この本の解説でも)『あのドストエフスキーがそう言った』と言って、まことしやかに信じられるくらい、現代でも全然通じるお話だった。

    日本では天保の改革をよってる年だと思うと随分先進的だ。というか、ロシアはこの時からさほど進歩していないのかしらん。。。

  • 何かを風刺しているのか、それとも何かを啓蒙しているのか分からないけど、2つともとにかく不思議な話だった。
    ロシア文学独特の暗さの中に独特のユーモアが含まれていて、娯楽作品としては面白く感じました。

    特に「鼻」は謎展開すぎて、シュールな笑いを誘うものとして読んでました。
    「中から礼服をつけた紳士が身をかがめて飛び降りるなり、、階段を駆け上がっていった。その紳士が他ならぬ自分自身の鼻であることに気がついたときのコワリョフの恐れの驚きとはいかばかりだったであろう!」
    このシーンなんか「鼻」を誰かの人物名かなんかと勘違いして3回くらい読み返した。

    訳者曰くこの表現は、「滑稽洒脱」で「写実主義的手法」を用いて描かれた素晴らしい芸術作品らしい。

  • 《外套》

    冒頭:ある省のある局に……しかし何局とはっきり言わないほうがいいだろう。
    末尾:そしてどうやらオブーホフ橋の方へ向けたようであったが、それなり夜の闇へ姿をかき消してしまった。

    【あらすじ】
     安月給の小役人、アカーキエウィッチは外套新調の資金集めに苦心していた。遂に新調された外套は彼の、勤務を熱愛し、娯楽を必要としない内気で優柔不断な性格を変えた。周囲は彼への態度を一転させ、新調された外套を褒め称え、彼をパーティーへと誘う。
     パーティーで彼は、自分の外套が注目されるも、すぐ興味を失い遊びに耽る周囲を尻目に、夜の街を引き返す。帰り道、彼は強盗から外套を盗まれてしまう。
     近くの交番に駆け込むもあしらわれ、署長を尋ねるもあしらわれ、つてを辿って役人を尋ねる。
     役人は友人の手前、威厳を見せつけるために、彼を怒鳴って

  • 外套
    ゴーゴリ作品初めて読んだ
    人にはそれぞれ良い所がある

    芥川龍之介の鼻もそうだが、ありえない話

  • 名作でしょう。子供のころ、「鼻」の人形劇を教育テレビで見た記憶がある。なかなか面白いと思っていたが、原作を読んだ。たぶん2度目だと思うが、それでも名作というものは、新鮮な感覚が得られる。悲喜劇ともいえる外套も同様、面白かった。何度も読まれるべき名作。訳も最高です。

  • 人間の広大無辺な運命というものを正確に描写するのが、小説家に与えられた究極の目標だったのだろうか?たとえばゲーテであったり、ユゴーであったり。だとすれば、この本に収められた短編2編は、それらの先行作家の作品とは同列にすべきではないのだろうか?

    なぜこんなことを考えたのかと言えば、ゴーゴリの短編になにか異質なものを感じたから。
    たとえば「外套」では、市井でも目立たず、うだつの上がらない男が主人公。神の啓示や精神的成長の軌跡などを見つけることは難しい。
    さらに「鼻」なんか、グロテスクで超現実的な内容に終始している。教訓も見当たらなければ、人生を照らす光のようなものもない。

    しかし私はそれだからと言って、この2編を低く評価するのは間違いだと漠然と感じた。なぜかと言うと、中国清代に民間伝承の怪異譚を集めて書かれ、日本の作家にも多大な影響を与えたという「聊斎志異(りょうさいしい)」を、ゴーゴリの短編から思い出したからだ。
    https://booklog.jp/item/1/4001145073
    聊斎志異では、庶民の日常生活のなかに自然な形で精霊や妖怪が姿を現す。また異形の者も多く登場する。だからもし聊斎志異の中で、亡霊が道行く者から外套を奪い取るという話があっても、鼻が服を着て街を歩くという話があっても、違和感はないだろう。

    だとすれば、ゴーゴリは聊斎志異を読んでいたのだろうか?芥川のように翻案したのか?
    でも冷静に考えれば、中国の読み物が1840年ごろにロシア語で翻訳出版されていたとは考えにくい。つまり、西洋社会が紙や羅針盤や火薬を発明したと思っていたら、同じものが中国大陸ですでに汎用化していたというのと同様だろう。だから現代の目から見てゴーゴリが先を越されているように見えるとしても、彼の創造力を過小評価するつもりはない。

    一方でゴーゴリの作品は、一読したところでは諧謔的なストーリーとして印象に残るが、熟考するにつれて、ある考えが浮かんできた

    ――名を成す大人物であろうと、私たちと同じような名もなき一般人であろうと、運命に真正面から向き合おうとしたとき、自分の力では如何ともしがたい不条理なものに突き当たることがあり、そのおかしさや悲しさを正確に描写しようとするが故に、ゴーゴリはこのような異質な構成を発明せざるをえなかったのではないか。
    つまり、ゴーゴリは先に出た中国文学の様式を下敷きにしたのではなく、あくまで自己の内発的なものによるのだと推測できる。

    したがって、中国の作品とどちらが早かったかなどは、どうでもいい話だ。中国や日本では、庶民生活を凝視することで、怪奇現象の擬人化を極め、豊かな想像力によって抒情性と自然の恵みの賛美など、自分が“生かされている”と認識するしかない境地への到達を可能にした。
    一方でゴーゴリは、路傍の石のように世間的には一顧だにされないロシアの庶民生活を、わざわざ拾い上げて手に取って角度を変えて眺め、石の模様が同じように見えながらも個が持つ美しさが浮かび上がる瞬間があるかのように、一見無骨に見えるものの中に存在する人間の本当の美しさを見いだしたのだろう。
    そしてどちらもそれぞれの土地に根付き、文学的に花開いたのだ。
    しかしながらゴーゴリの文学作品は、あのドストエフスキーを生み出す種となったと考えると、ロシアの大地と同様に、その広がりがうらやましくもある。

    なお、ゴーゴリはポルタバ近郊生まれ。ポルタバは現在のウクライナにある。ウクライナ人とロシア人のどちらもが、自分たちを代表する作家としてゴーゴリを誇れる時代が早く来ることを願う。

  • この紙本もあるのだが、今回はKindleで再読。高校生でこれ読んでも切なくならんて…近代文学は"名作の宝庫"だと思わせしめる「外套」。

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