文芸講話 (岩波文庫 青 231-2)

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著者 : 毛沢東
制作 : 竹内 好 
  • 岩波書店 (1956年10月5日発売)
  • Amazon.co.jp ・本 (87ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784003323120

文芸講話 (岩波文庫 青 231-2)の感想・レビュー・書評

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  • 「文芸講話」毛沢東 竹内好訳 岩波文庫
    この本を選んだのは単純である。「岩波書店創業百年記念読者が選ぶこの一冊」の冊子において、この本が「薄い岩波文庫」で1番だと紹介していたのである。ちょっと手にとってみた。

    少しは予想していたが、薄いからといってあっと言う間に読めるわけじゃない。87pのパンフを読むのに三ヶ月かかった(ホントは買ってから三年かかっている)。もしかしたら、ページ当たりでは今まででもっとも手強かったかもしれない。

    毛沢東を本格的に読んだことはないし、竹内好もしかり。お二人とも興味深い人物なので、収穫はあったのだが、正直まだよくわからない事が多い。

    文芸問題は同時に思想問題だということもわからないではない。しかし、この文芸を革命の武器として徹底して磨きあげようとする姿勢に、私は怯まざるを得ない。それをこの八路軍内で言えば私は日和見主義と批判されるのかもしれない。しかし、この違和感を私は大事にしたい。

    最初に毛沢東が方向性を出し、20日間の討論ののちに「結論」として、「誰のために」「どう奉仕するか」「党との関係」「統一戦線問題」「文芸批評問題」そして最後に思想問題としてまとめるやり方は、竹内好によれば全ての毛沢東論文に共通しているのだという。そのように「弁証法的に」理論を磨きあげる姿勢は学ばなくてはならないだろう。

    読了あとに哲学者古在由重が、1950年代後半この本をテキストに労働者の学習組織自由大学で何年間も使っていたことを知った。おそらく学生たちは岩波文庫を100円ぐらいで買っていたと思う。当時の青年たちの感想を聞いてみたい。

    この本を読んだだけでは到底無理だが、古在由重は1960年代始めに文化大革命が始まった時に知識人の中で唯一最初からこの革命を根本部分で批判していた。文化大革命の本質が革命ではなく、権力闘争にあることを見抜いていた。それは、解説書ではなくテキストを真摯に読んでいたからだと思う。

    最後のページで魯迅の詩を大絶賛していた。魯迅の作品はまさに融通無碍の作風に思っていたので、どう読めば「革命の武器」になるのか、若干意外だった。
    2013年7月9日読了

  • (1966.07.20読了)(1966.05.23購入)
    *解説目録より*
    1942年5月延安で行われた文芸座談会における毛沢東の講演で、翌年、文章として発表された。中国におけるマルクス主義芸術論の歴史的文献として、その後あらゆる分野における指導理論となった。「文芸は、人民大衆のものである」という基本的方向を、実践的な現実の中で、具体的に論じ、「社会主義リアリズム」について平易に説く。

  • 反日デモで、毛沢東の写真を掲げている人らがいたので、はて毛沢東はどんな人だったかなと思って読みました。実践論でも矛盾論でもなく、検索したら一番上にこの「文芸講話」が出てきたのです。で、買いました。

    問題を討論するうえで、マルクス主義にのっとり、観念的な定義ではなく実際から出発するのである、というのが文芸講話における主張の土台であり出発点です。
    まず、文芸作品は、「実際」である労働者、農民、兵士のためにあるべきと何度も主張します。内容は、労働者、農民、兵士の受け入れやすいものであるべきと言います。そのために作家は労働者、農民、兵士にならないとだめだ、実際の現場に行けとなります。そしてよく彼らを理解したうえで、革命を前進させる作品を書いていけという結論です。
    芸術は、人民のなかにあり、頭のいいやつの頭のなかにはないとのことです。過去の名作は批判的に吸収して、人民芸術の創造に代置はせず、作品内容は、人間が人間を搾取圧迫する事実から、団結と闘争に向かわせるものとする。団結のための抗日文学が肝要であるとしております。
    おそらくこの抗日は国民党を潰すためのものだろうと思ったりもしました。

    極めつけが、内容が反動的なのに、芸術的にレベルの高いものは一番有害である、という主張です。芸術家の本分というのは反動的でレベルの高いものですから、表現の骨抜きですね。恭順的でレベルの高いものしか書けなくなります。しかもそのレベル高いは、団結と闘争に効果のあるものという意味での高さです。

    後半から、文芸座談会での意見の各論検討となります。
    その各論はとてもいいものばかりなのですが、結局結論にもっていく共産党が容赦ないです。

    人間性というものをもっと考えようという意見に対しては、人間性は抽象的に存在しない。小ブルジョアはプロレタリア階級の人間性は人間性ではないと言っている。人間性なんか言ってたら、小ブルジョアにいいようにされるだけだという。
    だが、共産党がまず小ブルジョアの人間性を認めていないじゃないか、という突っ込みをしたら反動で糾弾の対象となるのでしょうね。

    また、人類愛をもっと考えようという意見には、人類愛は階級がなくなれば存在すると一蹴。

    大衆の光明と暗黒をバランスよく書かないとだめという意見については、「人民大衆を害する暗黒勢力はすべて、これを曝露すべきであり、人民大衆の革命闘争はすべて、これを礼讃すべきである」と、5:5で書くべきというのを10:0で書けとする。

    文芸の本質は曝露にあるという鋭い意見には、「曝露の対象を人民大衆にしてはならない」とぶっちゃけてしまう。小ブルジョアは「人民を愚物だ、専制的な暴徒だ」とすぐに言う。そんな言葉に惑わされるな、として曝露を否定。
    まあ、ということは、大衆とはそういうものであると毛沢東や幹部はよくよく知っているのだろう。

    魯迅のやり方をもっと学ぼうという意見については、魯迅は革命人民なり政党を批判したことは一度もないと、本当かどうかわからないことを付け加える。

    ただ褒めそやす作品が偉大ではないし、鋭い大衆批判が卑小につながるわけはないという意見については、「プロレタリア階級のいわゆる「暗黒」を描けば、その作品はかならず卑小なのである」と何の前置きもなしに言う。唯一の理由は、「なぜなら人民は人類の世界歴史の創造者だからだ」である。
    大衆批判する人も人民の一人であると思うのだが、その点はどうなのだろうか。そんな人は小ブルジョアなのだから人民ではないのだろう。

    文芸作品とは、立場の問題ではなくて、表現の問題ではないかという、微妙な部分をついてくる意見に関しては、要するに「誠意ある自己批判を行い、大衆に効果のあるものを書いていけ。表現は効果と直結している」と言い、効果が評価基準となると結論する。

    マルクス主義をそんなに守り続けたら、創作なんてやってられるのかというこれまたその通りだと思える意見には、「教条的に書こうとするからそうなるのだ。それはマルクス主義ではない。君らの考える創作をぶちこわすのがマルクス主義なのだ」とする。
    読みながら、一瞬、「え……まじかよ」となって止まってしまうことが幾度もあった。

    文芸座談会に参加したのは、数十名の文学者・芸術家と、毛沢東ら共産党幹部である。
    これはおそらく脱国民党のテキストで、延安を本拠地とした共産党に流れ込んだ国民党地区からの知識人らのあたまのなかを整理整頓するための運動の一つの方針書だ。

    すると、この通りに考えた場合、反日デモは、「尖閣に侵略する日本が憎い。沖縄を独立させ、中国の領土とする」とか「日本を憎いとしつつ、反政府なのだ」とかでもあるかもだが、「党内で、この中国で、主導権を握るのは俺だ」という権力闘争の一つであり、中国国民の不満も、日本国民の不安も、ただのついでであるような、党上層部の単なる血を血で洗う戦いの一つであるかもしれない。

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