不可能性の時代 (岩波新書 新赤版 1122)

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  • / ISBN・EAN: 9784004311225

感想・レビュー・書評

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  • 09/4/10

  • そういえば見田宗介のあの本復刊したな

  • この本の時代区分をすれば、
    1.戦後〜70年代「理想の時代」
    2.70〜80年代「虚構の時代」
    3.90年代「リスク社会」(=大澤『虚構の時代の果て』(ちくま新書、1996年)
    4.2000年以降「不可能性の時代」。
    って感じになるのかな。

    どちらかというと、「理想の時代」から「虚構の時代」までが説得力を持つが、これは後付論であるし、基本として見田宗介の論を敷衍しているから、まあ、定着した当然の道筋のような気がする。

    全体としては、「腑に落ちた」感が少なく、ここのところの社会の「不全感」が「不可能性の時代」にネーミングされちゃうのは当然過ぎてオドロキがないと、思ったり。

    それでも、本旨とはあまり関係ない2、3箇所が気になったり、感心したりしたので引用してみる。


    1.リスク社会

    「(リスク社会は)システムの再帰性の水準が上昇し、システムにとって与件とみなされるべき条件が極小化してきた段階の社会である。このとき、ときに皮肉な結果に立ち会おうことになる。リスクの低減や除去をめざした決定や選択そのものが、リスクの原因となるのだ。たとえば、石油等の化石燃料の枯渇はリスクだが、それに対処しようとして原子力発電を導入した場合には、それが新たなリスクの源泉となる。あるいは、テロへの対抗策として導入された、徹底したセキュリティの確保は、それ自体が、あらたなリスクである。このように、リスクそれ自体が自己準拠的にもたらされるのである」(P.132)

    リスク社会の、二律背反をここではよく分析されていて、リスク社会の予想されている「リスク」は極めて大きく、破壊的な結果をもたらすことと、しかし、そのリスクは判定不能であること、リスク社会におけるリスクに対しては中庸と言う対策が効果をもたず、全か無かの極端な選択をせまられること。
    さらに、リスク防御のための行動がすべてまたあらたなリスクになりえること。 それを「自己準拠的」というコトバでまとめている。



    2.ポストモダンにおける自由の規範化について

    「かつて、自由とは、第一義的には規範からの自由であった。言い換えれば、規範は、第一義的には禁止であった。そして、快楽は、規範への侵犯の内に宿るものであった。たとえば、婚前前の性交は、禁止されていることによって、快楽の度合いを高めたのである。だが、今や、こうした古典的な関係が逆転してしまった。自由そのものが規範化されてしまっているからである。そして、まさに規範と合致したその行為が快楽そのものでなくてはならないからである」(P.142-143)

    卑近な例をだすと、自由恋愛は快楽そのものじゃなくてはならないとか、愛のあるセックスはすべて快感じゃなければならない、というような規範に私達は脅かされすぎてはいまいか。逆に言えば、快楽のない恋愛には愛がない、快楽をともなわないセックスはセックスではないというような。
    自由が規範化される、というのは、自由に選択したはずだから、楽しいはずだという強迫観念のこと。自由業は必ず楽しいか?



    3.不可能性の時代
    「『現実』から逃避するのではなく、『現実』へと逃避する者たちがいある。現代社会を特徴付けているのは、伝統的な前者(「からの逃避」ではなくて、後者(「への逃避」)である。この場合、『現実』というのは、日常のそれではない。それは現実の中の現実というべきもの、つまり激しく、ときに破壊的である現実である。現代の大衆社会の中では、このような破壊的な『現実』への嗜好や期待が、広く共有されている」(P.218)

    確かにつねに論者達は、悲観的なトーンをもって、現代社会(や日本)が破局へと傾斜していく、と警鐘をならしている。まるで「破局」を待ち望んでいるかのように。
    その欲求とはいかなる精神的バックグラウンドをもっているんだろうか。



    4.ムーゼルマンの境位

    「アガンペンは、強制収容所のユダヤ人たちを特徴付ける基本的な感情について述べている。それは羞恥である。(中略)
    羞恥とはなんであろうか?(中略)わたしが恥ずかしさを覚えるためには、まず、それは私自身だ、と見なす他ない内密なものが暴かれ、<他者>に現前している。たとえば、この裸は私自身である、と。同時に、―それは私にとって奥深く親密なものであるにもかかわらず―私はそれを引き受けることができないとも直観している。要するに、私にとって徹底的に内密なものが、究極の疎遠性を払拭できないままに、<他者>のまなざしにさらされているとき、私は恥ずかしいのである。収容所のユダヤ人たちは、ムーゼルマンとしての己の身体が、そのような内密性と疎遠性を同時に備えていたのではないか」(P.245-246)


    羞恥には「疎遠性」と「内密性」の双方が必要とされる、というのは、言われてみりゃ当然でも、実は目からウロコである。自分がゲイであることを認められなかった時は、それは羞恥であった。バレることは何よりも恥ずかしかった。自分そのものでありながら、もっとも自分が疎遠にあつかってきた部分。自己であり他者であるような。あるいは他者の中に認めがたい自己を見るような。ホモフォビアとは羞恥の別名である。

    そうした「羞恥心」というものが、「ムーゼルマン」(=収容所のあまりに過酷な環境の中で、人間性の零度まで到達したユダヤ人)、すなわち、気力も体力も感情も失って、一切人間的な感情を示さなくなった人々から、唯一取り出しえる感情というのは、一体どういう摂理によるものなのだろう?

    大澤は実はここに究極的な絶望を見るほかに、われわれに内在する普遍的・偶有的な可能性を見ている。



    4.「不可能性の時代」の希望

    「愛は、特定の<他者>を囲い込む、排他性を持たざるを得ない」
    「愛と憎悪は随伴関係にあるのだが、極限のケースにおいては、愛の対象と憎悪の対象とがまったく同一の<他者>になりうるのではないか、と」
    「人は特定の身体や装置に具体化され尽くされない不定の他者に見られている―見られたい(※羞恥)という感覚を持っている。この不定の他者への感受性を帰結する作用と、愛の内に憎悪(の萌芽)を孕ませる作用とは、まったく同じものである」
    「それゆえ、こう結論できる。憎悪と完全に合致した愛こそが、つまり裏切りを含んだ愛こそが。われわれが求めていた普遍的な連帯を導く可能性を有しているのはないか」(P.260-263)

    この本の結論部である。
    排他性をともなう愛よりも、憎悪の方が排他的側面をもたない。だからこそ、普遍的であり、遠いものとも連帯ができる、という(かなり乱暴な要約だが)結論である。アクロバティックのように見えるが、大澤はそこをホッブズ、ベンヤミン、ジジェクなどを引きながら、論証していく。
    愛より憎悪の方が開かれているっていうのには、ある一定の説得力はあるんだけれど、憎悪によって暴力をともなわない「連帯」が可能かどうかは自分にはわからない。確かにもっとも敵対しなわなければならない相手にこそ、最も多くの関心を払ってしまう、ということはある。ペシャワール会にしろ、オウムの被害者河野義之氏にしろ。しかし、その前に「憎悪」を暴力に結び付けない、何がしかのコントロール装置が必要なのではないか。

    好きな相手のことよりも、苦手な相手のことを常々考えてしまい、結果的に、「自省」を生み出してしまう時のような。

  • まだ3ヶ月以上あるのでまだ言い切れない部分がありますが、今年一番といっても良いほどの読み応えがある本です。新書と侮るなかれ。価格と読みやすさから得られる新しい地平の広さを思えばこそ言えます。社会科学系の本において今年一番の衝撃的な指摘と解説をふくんだ本でした。恥ずかしながら著者である大澤真幸氏の名前はこの本で初めて知りました。

    バブル経済崩壊後に長引き、「失われた10年」と比喩されたり、閉塞感や不景気に対して突破感をもてない戦後最長の拡大成長期をへて、たどりついた2008年という今の時代。しかし、著者・大澤真幸氏は現在の日本がなぜこうした状況にあるのかを経済の拡大か停滞かと関係なく、日本が戦後の数十年間にどのような社会的変遷をへてたどりつき、そこでなぜ私たちがこうした閉塞感や不安や不満に囲まれているのかを、著者は鮮やかに解きほぐしていきます。

    社会学を勉強したことのない私にとっては「オタク」という言葉が、いまだにかなり狭い分野に異常なまでに固執して専門知識を積み重ねていく、閉鎖的な社会で悦楽を見いだすアキバ系を想像してしまいます。しかし、今ではまったく異なり、自分たちの好む世界が、狭く、その狭さゆえに同じ関心を持つものとは融和しやすい。それが、現実世界での物理的な生身の人間関係で当然とされる「差異性」が排除されていると著者は指摘します。

    ★《印象的文章》① 
     「オタクが交際を求める他者は、一般に、同じ「趣味」を共有するオタク仲間である。つまり、それは、類似性ーそれぞれのオタクを他の人々から分かつ弁別的な特性に関する類似性ーを、本質とする他者である。ところで、他者の他者たる所以は、差異性にこそある。他者についての経験は、何であれ、差異をめぐる経験である。そうであるとすれば、オタクが欲求している他者とは、他者性を抜き取った他者である。」(P.110)

    この指摘が私にはショックでした。そうであるならばSNSの基幹的な機能であるコミュニティもオタクと同じではないかと思い、そこから考えを広げていけば、バーチャルな世界だけでなく、専門知識による即戦力性をもとめる組織(政府や企業など)でも暗に求められているのも、差異性を当然とした他者ではなく、他者性のない他者なのではないかとさえ思えてきたからです。しかも、大澤氏の指摘は人間が一番敏感である人間関係だけでなく、日常生活の何気ない一幕にもこうした「当然存在すべきモノの排除」が垣間見られることを列挙します。

    ★《印象的文章》②
    「われわれは、さまざまな「××抜きの××」の例を見ておいた。カフェイン抜きのコーヒー、ノンアルコールのビールなど、「××」の現実性を担保している、暴力的な本質を抜き取った、「××」の超虚構化の産物である。こうした「××抜きの××」の原型は、〈他者〉抜きの〈他者〉、他者性なしの〈他者〉ということになるのではあるまいか。〈他者〉が欲しい。ただし、〈他者〉ではない限りで、というわけである。」(P.193)

    この文章が、私たちは生きながらえる上で日々書かすことのできない食料をいただく「食べる」という行為と密接に関連していることを明らかにします。確かに××抜きの××って多いんですし、それに魅了されて消費している自分もいるのです。筆者の文章に登場するオタク像とは縁遠いと思っていた自分が、実はこの本に描かれている現代人そのものであることと驚かされたのです。

    人間が求めるものが「××抜きの××」という点で類似性があることを人間関係においても、生存の密接する食品への嗜好性にも、それらの底流をなす発想にも見いだせることを指摘した著者である大澤真幸氏。本の後半にすすむにつれて、「問題」だと指摘した現代社会を包括的にみて分析するものから、問題を解決して閉塞感のただよう日本社会を個々人がどのような理解をもとに突破していけるのかという一大仮説の構築にむかっていきます。

    人間関係から生じる恐怖や不安へのおそれから類似性を他者にもとめつつも、リストカットや格闘技番組が視聴率をとるなど生身の肉体を傷つけ、それを実感する行動ももつ現代人。一見、驚異的なスピードで実現したIT社会によって仮想現実が切り開いた市場もある一方で、まったくベクトルが正反対である自傷行為や肉体の衝突という身体性をかなりつよく意識できることが併存していること。それに対してどうあるべきかと一つの答えを見いだせないもどかしさを著者は、リスク社会を引き合いに出して述べます。

    ★《印象的文章》③
     「リスクをめぐる科学的な見解は、「通説」へと収束していかないーいく傾向すら見せないからである。たとえば、地球が本当に温暖化するのか、どの程度の期間に何度くらい温暖化するのか、われわれは通説を知らない。あるいは、人間の生殖系列の遺伝子への操作が、大きな便益をもたらすのか、それとも「人間の終焉」にまで至は曲に連なるのか、いかなる科学的予想も確定的ではない。
     学者たちの時間をかけた討論は、通説への収束の兆しをみせるどころか、全く逆である。時間をかけて討論すればするほど、見解はむしろ発散していくのだ。リスクをめぐる科学的な知の蓄積は、見解の間の分散や懸隔を拡張していく傾向にある。このとき、人は、科学の展開が「真理」への接近を意味しているとの幻想を、もはや、持つことができない。
     さらに、当然のことながら、こうした状況で下される政治的あるいは倫理的な決断が、科学的な知による裏付けをもっているという幻想を持つこともできない。知から実践的な選択への移行は、あからさまな飛躍によってしかなしとげられないのだ。」(P.135)

    さまざまな問題に対して、だれをも説得させ、理論的に屈服させることのできるほど強烈な通説をてにいれることができない問題が多く、ひとつの解や決断に到達することができない。こうした社会問題が多いことからこの本のタイトルである「不可能性」の意味が不気味に浮かび上がってきます。そして、大澤氏は社会を俯瞰していた高い視点から、一気に個人個人の間に存在する人間関係のレベルにまで降下してきて、次のように言います。

    ★《印象的文章》④
    「〈不可能性〉とは〈他者〉のことではないか。人は、〈他者〉を求めている。と同時に、〈他者〉と関係することができず、〈他者〉を恐れてもいる。求められると同時に、忌避もされているこの〈他者〉こそ、〈不可能性〉の本態ではないだろうか。」(P.192)

    最終的に〈他者〉とのつながりをどのようにつくりだしていくのかを体験できない人々が増えているのであるとすれば、ヒトが〈他者〉に関心を抱く瞬間にはどのような勘定が存在するかをもう一度確認してみなくてはなりません。大澤氏は、愛と憎悪という相反するかにみえる勘定の同居が、不可能性を突破する方法である解説しています。自己愛や家族愛など、広大な社会の中において一個人の関係性を内向きにとじこまる方向に作用する「愛」と、攻撃的なまでに関係性を放射する「憎悪」。

    ベクトルがまったく真逆であるこの2つの同居がなしえる行動を、著者は、河野義之氏(松本サリン事件被害者)と中村哲氏(ペシャワール会代表)に見いだします。それまでに語られてきた問題の絶望的な新国際に比べ、突破口となるであろう事例紹介としてはやや力が弱い気もしますが、それだけ問題が深刻であるなか、効果的な行動のともなう療法を、発見しきれていないとも読み取れます。

    この本には、マンガやアニメ、テレビゲームなどから社会の動向やゆるやかな変化を読み取っている部分があるため、そうしたものに触れる機会がさほど多くない人にとっては心に落とし込むまでに時間がかかる部分もあるかもしれません。しかし、そうした狭く小さな分野を一世界として没入するオタク的世界が無数に寄り集まってできているのが、私たちの生きている社会であることもまた事実です。そのことを知るだけでも、そして自分がそうした世界に生きていることでなぜ閉塞感や限界を感じるのかをさぐるてがかりを得ることも、この本を読むことでできると思うのです。

    大学時代に、坂本義和氏の『相対化の時代』を読んで世界を見る目が広がった感覚を覚えることがありました。それから10年を経て、仕事に追われることで世の中で起きている個々の事件をしることはできても、それらの出来事を流れと解釈する視点は無くしてしまっていました。そうした俯瞰できる視野を与えてくれたことに、いまはただただ感謝です。

    【印象的文章】(番外編)
    あげればキリがないほど、説得力ある文章がならぶ本作ですが、その中でも抜きん出たインパクトを持っていたものを書き出しておきます。

    ●「東条(英機)は、MPが逮捕に来るとピストルで自殺を試みるも、死ねなかった。おまけに、「東条、これを持って」とピストルを握らされて写真を撮られる無様さであった。彼は、氏名不詳のGIからの輸血で一命を取り留める。(中略)「生きて虜囚の辱めを受けず」と訓諭していたこの軍人が自死しなかったこと、しかも未遂に終わった自殺は刀ではなく、ピストルによるものだったこと。(中略)東条の身体を走る米人の血液が、敗戦という断絶が、いかに自然な連続性の中で生じているかを象徴してはいないだろうか。」(P.25)

    ●「「格差社会の到来」という不吉な時代診断に説得力を与えているのは、格差という現状そのものではなく、来るべき救済を読み取りうる視点の不在である。」(P.128)

    ●「イスラム世界の原理主義に、西洋近代の反対物ではなく、西洋近代の真実の姿を見るべきではないか。だが、両者は、どのような意味でつながっているのか。どのような意味で、原理主義が西洋近代の真実なのか」(P.230)

    ●「軍は、途中で、ある老女に出会った。彼女は、右手に火を、左手に水をもってさまよい歩いていた。何をしているのかという問いに対する彼女の答えはこうであった。火は天国を焼き尽くすためにのものであり、水は地獄の業火を消し去るためのものだ、と。「なぜなら、私は、人が天国での報酬への期待や地獄での恐怖から善を成すことを望まない。ただ、神への愛のためにのみそうして欲しい」と。天国と地獄を無化してしまっているのだから、老女の態度は無神論的である。だが、それは信仰の否定によってではなく、信仰の徹底かによってこそ導かれてもいる。」(P.256)

  • この本は戦後日本が、理想→虚構→不可能性 の時代という変遷をたどってきているという主張をしていて、今は不可能性の時代と呼ばれるらしい。所々自分たちになじみの具体例についても言及されていてとてもおもしろかった。酒鬼薔薇聖斗の事件やオウム真理教、ニコニコ動画やオタク、オタクの漫画やアニメ、エロゲなどについても触れられていて、そのいろいろな社会現象に大澤なりに意味を与えていた。最後の結論の部分でネットワーク理論という理系の学問分野を利用して締めていたのが新鮮だった。言葉の綾の空虚な胡散臭い学問になりがちな社会学に科学という裏づけをしたのが面白く、新鮮だった。

  • 「戦後○○年」というような時代区分を使用するのは世界の国々を見渡しても日本ぐらいである。著者はその戦後を理想・虚構・不可能性の時代に分けて論じる。他者性をキーワードに、理想を貫徹し、虚構の時代に至り、現在の不可能性への時代を迎えた過程がとてもわかりやすく論じられる。

  •  2008年4月に発売された本だからかなり新しい。戦後から、理想の時代、虚構の時代と進んできて、現在の不可能性の時代に至るという話。なんだか、ところどころうまく身に入らない部分があって、著者に付いていけてないと自ら感じたりする時もあったが、以前この著者が書いた本に関連づけて考えると非常によくわかる部分がけっこうあったため、たぶん、大澤真幸の今までの本とかをだいたい読んでたら、もっとよく身体化されるのだろう。とても興奮した。特に、酒鬼薔薇聖人のくだりと、最後らへんの思想分析の部分が、大変おもしろかった。大澤真幸を読んだことのない人でも楽しんで読める本だと思う。色々なアイディアや興味深い社会的事件が本の中に散りばめられていて、知的興奮を与えるだろう。2008.7.9-11(3d).


  •  たいへん明晰な戦後論。


  • 僕の大澤真幸の出会いは、この一冊からだった。
    要するに、つい最近なのだ。
    この本から大澤真幸の本をいくつか読んできたが、
    ダントツにこの本は読み易く書かれている。でもその中にも大澤社会学のキーワードである「第三者の審級」だったり「アイロニカルな没入」だったり<他者>といったものが
    散りばめられていている。そして何よりも、興味が湧くような具体的な話題の数々から論を発展させているので、読んでいて飽きない。
    大澤真幸入門に最適な一冊だと思う。

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著者プロフィール

大澤真幸(おおさわ・まさち):1958年、長野県生まれ。東京大学大学院社会学研究科博士課程修了。社会学博士。思想誌『THINKING 「O」』(左右社)主宰。2007年『ナショナリズムの由来』( 講談社)で毎日出版文化賞、2015年『自由という牢獄』(岩波現代文庫)で河合隼雄学芸賞をそれぞれ受賞。他の著書に『不可能性の時代』『夢よりも深い覚醒へ』(以上、岩波新書)、『〈自由〉の条件』(講談社文芸文庫)、『新世紀のコミュニズムへ』(NHK出版新書)、『日本史のなぞ』(朝日新書)、『社会学史』(講談社現代新書)、『〈世界史〉の哲学』シリーズ(講談社)、『増補 虚構の時代の果て』(ちくま学芸文庫)など多数。共著に『ふしぎなキリスト教』『おどろきの中国』(以上、講談社現代新書)、『資本主義という謎』(NHK出版新書)などがある。

「2023年 『資本主義の〈その先〉へ』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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