- Amazon.co.jp ・本 (208ページ)
- / ISBN・EAN: 9784004316008
感想・レビュー・書評
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柄谷さんの本は毎回期待しながら読むのですが、今回も期待を裏切らず面白く拝読しました。柄谷さんの本は、書いてあること自体正しいか正しくないか、という視点で読むのではなく、素直に「そう来たか」というところを面白がって読む方が私は好きです(正確に言えば私のレベルでは正しいかどうかなどわからない)。本書は複数の講演録をもとにつくられているので、章の間のつなぎというか、論理展開が飛躍している感じのある箇所もあったのですが、全体的には面白く拝読しました。憲法9条はなにか仏教で言うところのお布施、見返りを求めない純粋贈与であって、純粋贈与に対してつばを吐きかけるような国があれば世界中から非難を浴びる、よってこれこそが実は抑止力であるという視点です。ある国で市民革命が起きれば他国の干渉(領土侵攻)が起こりますが、日本の9条に関しては他国の干渉(領土侵攻)が起こらない中で導入された、これはなにか色々な偶然が重なった奇跡という感じもしました。私くらいのレベルでは、もはやこのレベルの本ですと正しい、正しくないというのが判断できる水準を遙かに超えているので、純粋に楽しんで読みました。
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フロイトが出てきて途中で挫折しました。
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【由来】
・確か図書館の岩波アラート
【期待したもの】
・柄谷行人だし、タイトルも興味深い
【要約】
・実は柄谷初体験でした。日本人の憲法に対する無意識を都市計画における「先行形態」と紐付けて江戸時代にそれを見出すというのが面白かったです。何だか加藤典洋と似た印象。
【ノート】
・日本人にとって憲法は最初強制、そこから自発的。江戸時代の高次的復活。無意識の力、スーパーエゴ。
世界史における120年な周期。帝国と帝国主義。新自由主義は呼び名を変えた帝国主義。
リアリスティックな安全保障の考え方こそが偶発的な事故を第一次世界大戦に変えた。軍事同盟とか。日本は今こそ九条をこそ世界に具体的な実行として示せ。
ちゃんと本を買って読む価値がある。宇野弘蔵の話も。佐藤優本との読み合わせをしたい。
柄谷行人は実は初体験。加藤典洋とかぶる、って、ちゃんと読んでないけど。
【HARA無双】
・柄谷行人は昔からしばしば読んでおりますが、最初の印象はまずまずですが、ダボハゼのように何にでも食らいついて(一番、最近、読んだのは中国文化についてだ)、自分の意見を開陳する(私のようだ)ところが鼻について来て、最近は気に入りません。見た目も横柄で不細工な奴だし。
【目次】 -
配置場所:摂枚新書
請求記号:323.142||K
資料ID:95160986 -
日本国憲法第9条が事実上空洞化しつつも、なぜ反憲法派が「明文改憲」に成功しないのか?という問題を考察しているが、フロイト精神医学の恣意的な準用による疑似科学的分析や、「徳川の平和」を現行憲法の「先行形態」として引き出す非歴史的思考は、とてもではないが説得力をもたない。「憲法の無意識」を捉えるならば、憲法と同様に「外的強制」され、ある意味9条以上に規範化している「日米安保の無意識」にもメスを入れる必要があろう(日米安保体制という前提がなければ憲法9条はとっくに改定されていたことは想像に難くない)。また、いくら講演草稿が元になっているとはいえ、「山県有朋が死ぬと《中略》美濃部達吉の『天皇機関説』が主流となった」「それが”大正デモクラシー”と呼ばれた時代です」(p.58)とか「日清戦争当時、米国は日本と手を結んでいました」(p.175)というような基本的な事実誤認がかなり多く、大雑把にもほどがある。
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現憲法の底流にあるものは,明治憲法ではなくて徳川時代の体制にあるという議論は目新しいが納得できるものだ.特に象徴天皇制については非常にしっくり当てはまると思った.第9条についての議論で無意識であるが故にこれまで存続してきたというのも,よく考えた考察だと感じた.カントの著作から哲学的な議論もあったが,やや現実離れしているように思った.
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柄谷行人は、自分が大学生の頃はいわゆるスタープレイヤーであった。彼の著作を読むことが一種のステータスでもあったように思う。もちろん一部では、ということだが。
本書は、その柄谷の憲法九条に関わる四つの講演を新書にまとめたものである。憲法改正が政治的なイシューになっている中で、それに対して反対であるという態度を明確にしているわけだが、現実へ与える影響は柄谷にはもうあまりないのではないかと思う。それでも、その理論的根拠を知りたいとは思うのだ。
まず第一に、憲法第九条が変えられなかったのは、日本人の無意識からきている。意識的なものであったのならとっくに変わっている、というのが柄谷さんの主張だ。「九条は護憲派によって守られているのではない。その逆に、護憲派こそ憲法九条によって守られている」というのは正しい認識だと思う。
ただ、「無意識」を語るのにフロイトを持ち出してくるのはどうしても今更感がある。フロイトが無意識というものを初めて大きく取り上げて世に知らしめたのは確かだが、その時代から無意識に関する知識は大きく進化していると思っている。もちろんここで使っている「無意識」は実際の人間の脳内活動における意識-無意識とは別のより比喩的な意味で用いているのであろうが、であればこそフロイドを持ち出すことなく丁寧に柄谷さんがここで使う「無意識」とはどういうものであるのかを説明すべきであったのではないのだろうか。
また九条=戦争放棄の位置づけを語るために、『世界史の構造』などで練り上げた交換様式に言及し、戦争放棄が一種の贈与であり、それが交換様式Dにおける純粋贈与となるという。戦争放棄を贈与とみなして、それを徹底すべきだというのは独自の観点でよいのだが、それでもリアリスティックなリスクを鑑みると責任のない地点からの言論にすぎないということもまた感じ取られてしまう。そういった想定される批判に対して、柄谷は次のように言う。
「憲法九条は非現実的であるといわれます。だから、リアリスティックに対処する必要があるということがいつも強調される。しかし、最もリアリスティックなやり方は、憲法九条を掲げ、かつ、それを実行しようとすることです。九条を実行することは、おそらく日本人ができる唯一の普遍的かつ「強力」な行為です」
しかし、こういった平和論よりも、日本ではずっと憲法改正などは行わず、リアリスティックに対処していくのではないか。それが似合っている。それを「無意識」と呼ぶのであれば正しいと思う。
『世界史の構造』などを読んだ後であれば、決してわかりにくい本ではないが、どこかもやもや感や落ち着きのなさが残る。それは左翼的なものがどこかいかがわしさをまとうようになったことを図らずも示しているのだと思う。柄谷さんはそのことに関してどれほど意識的であるのだろうか。