近衛文麿: 教養主義的ポピュリストの悲劇 (岩波現代文庫 学術 218)
- 岩波書店 (2009年5月15日発売)
- Amazon.co.jp ・本 (375ページ)
- / ISBN・EAN: 9784006002183
作品紹介・あらすじ
戦前の人気政治家は、戦争の時代にいかなるリーダーシップを発揮したのか。三度も宰相を務めながら、なぜ日本を破局の淵から救えなかったのか。近衛の栄光と挫折を、教養主義とポピュリズムとの連関から究明し、大衆社会状況下のマスメディアのイメージ戦略に注目して考察した待望の書き下ろし。岩波現代文庫オリジナル版。
感想・レビュー・書評
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岩波現代文庫
筒井清忠 近衛文麿
三度首相となった近衛文麿をポピュリズム政治家というのは、かなり厳しい論調。政権の人気を高めるために 日中戦争を利用した点から厳しめの論調になっている。日米戦争を最後まで回避しようとした点については 遅すぎたという批判
副題「教養主義的ポピュリストの悲劇」は、大衆の人気で 押し上げられた教養主義的政治家が、ポピュリズムに陥り、自殺に追い込まれた悲劇の人生 を意味
良いものは吸収してバランスを図ろうとする 教養主義的な論文「英米本位の平和主義を排す」は 国際的論調の正論だと思うが、その後の盧溝橋事件の時から マスメディアと一体となって、民族主義的でポピュリズム的な性格が現れてくる。ポピュリズムにならないと 軍部の政治権力には対抗できないのかなと思う
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参考となりそうな部分のみ読んだ。
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近衛文麿の生涯がまとめられている。歴史の教科書だけではわからない、彼が政治家として何を成そうとしたのか、何を成したのか、同時代人からどう評価されていたのか、後から振り返ってみるに彼はどういった人物だったのか、という近衛文麿自身のことについてもよくわかるし、日本を戦争に導いたものはなんだったのか、当時の空気というものが伝わってくる。
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五摂家出身の「貴族」である近衛はモダン性、復古性を併せ持ったスターであった。親英米であり、当時の流行である社会主義に通じ、ゴルフ好きであった。一方で、天皇への忠誠心を抱き、古美術を愛し、アジアの連帯を訴えた。「長身」「美丈夫」は女性の人気を集め、相撲の見物は庶民に親近感を持たせ、教養主義はインテリの人気を集めた。そのような「近衛」像はメディアを通して拡散し、首相就任前から国民的人気を作り出していく。「華冑界の新人」として各層に熱狂的に迎えられ、その人気を背景に政治家として活動した。
一方でその熱狂的人気は近衛の政治活動を束縛するようになる。「貴族」に過ぎない近衛は国民の支持をなくしては活躍できない。結局、国民の強硬世論に流され、自身もまた「国民政府を対手とせず」声明などで火に油を注いでいく。彼の教養主義は活かされなかったのである。
ここで著者は、教養主義がポピュリズムに陥った点に注目する。すなわち、特に近衛のような基盤を持たない貴族・知識人政治家は軍部に対抗する上ではポピュリズムに頼らざるを得なかった。教養主義はその時意味をなさなかったのである。
それは今でも変わらない、というより民主主義の課題であろう。世論なくして政治家は生まれない。世論ばかりに従っていては政治にならない。世論と違うことをする時に、過度に単純化せずに有権者の注目を集めながら丁寧に説明できるか。池上彰的な政治家が求められるように思われる。
現政権も一時期それに近いことをしていた気もするが。 -
[ 内容 ]
戦前の人気政治家は、戦争の時代にいかなるリーダーシップを発揮したのか。
三度も宰相を務めながら、なぜ日本を破局の淵から救えなかったのか。
近衛の栄光と挫折を、教養主義とポピュリズムとの連関から究明し、大衆社会状況下のマスメディアのイメージ戦略に注目して考察した待望の書き下ろし。
岩波現代文庫オリジナル版。
[ 目次 ]
はじめに 近衛文麿の「悲劇」とは何か
誕生と学習院
一高と教養主義
京都大学「白川パーティ」
「英米本位の平和主義を排す」とパリ講和会議随員
貴族院議員としての活動1―「左傾化する貴族たち」
貴族院議員としての活動2―二大政党対立時代と「グレーの風格」
貴族院副議長・議長―満州事変、五・一五事件
訪米と近衛ファミリー
二・二六事件前後
第一次近衛内閣の展開―盧溝橋事件から「東亜新秩序声明」まで
枢密院議長―平沼・阿部・米内内閣期
第二次近衛内閣―三国同盟から松岡洋右外相との確執まで
第三次近衛内閣―南部仏印進駐・頂上会談構想・九月六日御前会議
太平洋戦争下の近衛
東条内閣打倒工作と「近衛上奏文」
戦後の近衛―東久迩宮内閣・マッカーサーと新憲法・戦犯指名と自殺
[ 問題提起 ]
[ 結論 ]
[ コメント ]
[ 読了した日 ] -
140906 中央図書館
日本の近代政治史に特殊な位置を占める、華族近衛文麿公についての評伝。
近衛の、優柔不断で責任感が欠如しているというイメージは、戦前から既に形成されていたものである。実母は出産直後に死去。一高時代に新渡戸稲造に傾倒し、その実践的教養主義の方向へ、近衛も進んでいった。京大では木戸幸一、原田熊雄が同窓となる。京大卒後に内務省へ勤務、パリ講和会議の際に西園寺公望の随行として洋行した。
1937年、テロの脅威、親英米派を忌避する風潮する世論、漸く大衆的圧力を操作しはじめたマスメディアの影響で、大日本帝国のエリート輩出システムが機能不全を起こし、首相候補が見当たらない中、近衛は首班指名を受け、2度に渡って総理大臣となる。
<span style='color:#ff0000;'>モダンと復古を巧みに融合したインテリイメージ</span>の近衛は、メディアの力によって絶大な人気を作られていった。しかし、太平洋戦争開始直後は、<span style='color:#0000ff;'>「開戦を決断できなかったトップ」という印象</span>を与えられ、、人気の源であったそのインテリ性ゆえに、メディアの評価は完全に裏返り「優柔不断」との像が形成された。
さらに終戦後は、戦争責任を免れないはずであるのにGHQに取り入る卑劣な者というイメージまでまとわされ、E.H.ノーマンにその反共性を憎まれて誹謗され自死へと追い込まれた。
華族という煌びやかなイメージで、一般から遊離した存在でありながら政治の中心に立たなければならなかったがゆえに、<span style='color:#ff0000;'>メディアの容赦ない毀誉褒貶</span>にさらされたのであろう。また、運命によって<span style='color:#ff0000;'>メディアのポピュリズムの対象となる場に出てしまったインテリゲンチャは、こうやって破滅に導かれる</span>という教訓でもあろう。 -
近衛と近衛内閣が選択した昭和30年代後半における重大局面は複数あり、三国同盟や日ソ中立条約や翼賛会結成や南部仏印進駐など、それぞれが日本が向かう方向性の幅を狭めるものばかりだったことを思うとその責任の重大さに驚愕を感じる。
では近衛の行動原理とは何だったのかということに本書では光をあてる。その行動原理から悪い判断が顕著に現れたのは第一次組閣時の盧溝橋事件以降の対応のように思われる。戦線の拡大を楽観視する陸軍やマスメディアや大衆に呼応して大陸への追加派兵を認め、最終的に第一次近衛声明に至る一連の経緯。それを俯瞰するにつれ、陸軍を獣にたとえて近衛の行動を「野獣に生肉を投じた」と評した同世代人の言葉はきっと的を得ているのだろう。
近衛が持つ教養主義が大正期のデモクラシックなものであれば、結果その政治方針が陸軍と同調した大衆を重視するポピュリズムに傾斜していくのも頷くことができる。 -
教養主義とポピュリストという2つの側面から分析した近衛文麿論。
印象に残るのは、ポピュリズムによってたつ者はポピュリズムによって倒されるというくだり。戦前はマスコミに華族界の有望新人と持ち上げられ、戦後は一転して戦犯としてたたかれる場面だった。現代でいえば、大阪市長の橋下徹の顔が浮かぶ。もっとも彼からは教養をみじんも感じないので、教養主義というより強要主義がふさわしいかも。 -
戦前の人気政治家が,傑出した支持を獲得した理由とは何か.戦争の時代にいかなるリーダーシップを発揮したのか.なぜ宰相として日本を破局の淵から救えなかったのか.貴族政治家の知性と教養,大衆的人気に着目してその栄光と挫折を考察した本書は,気鋭の歴史社会学者による待望の書き下ろし。岩波現代文庫オリジナル版。
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近衛文麿は一般的に優柔不断で弱い人物と言われることが多い。彼に決断力があれば太平洋戦争は回避できたのではないかという意見もある。この本はそのような見方に一石を投じるものだ。近衛の政治基盤は多分にポピュリズムに支えられたものだったのは間違いないだろう。しかし彼の置かれた状況における優柔不断さは誰か別の人物であったら避けることのできたものだったかといえばそうではなかったであろう。ポピュリズムで持ち上げられていた反動もあり戦後の評価は不当なほどに低いがそれが本来あるべき評価なのかを改めて問う良書。