- Amazon.co.jp ・本 (450ページ)
- / ISBN・EAN: 9784062164474
作品紹介・あらすじ
夏目漱石から松本清張まで多くの作家との意外な接点。日本初の編集プロダクションかつ翻訳会社を率いて「弾圧の時代」をユーモアと筆の力で生き抜く姿。社会主義運動家に文学から光をあてる画期的試み。
感想・レビュー・書評
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堺利彦の「売文社」時代に焦点を絞った評伝。社会主義史や大正デモクラシー史では、大逆事件後の「冬の時代」のカムフラージュ稼業として軽視されがちな「売文社」を、編集プロダクションや翻訳エージェントの先駆として高く評価している。「万朝報」「平民社」時代や大逆事件にも紙幅を割いているが、社会主義者・運動家としての姿よりも、文人・編集者としての姿に重きを置いている。
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ふむ
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ノンフィクション
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近代史には特に疎い私。多くの事を学ばせていただきました。
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社会主義者にとってもっとも厳しい時代を現実的に生き抜くために仲間や後輩を支えた堺の売文社の活動を軸に著者が、緻密に積み重ねた資料をもとに克明に描き出す。
パンとペン。これは好きなことなど追い求めたいものをもつ人間にとって、ついてくる問題で、音楽家や小説家、などといった職業にも言える。堺はペンを支えるためにパンを得る手段を創出した。時期を待つために、生き抜き思いを実現するために編み出した知恵といえる。知識階級であるものの、成功したエリートでもなかったという点が、私にも共感というか、どこかに埋もれていた傷に指さされる感覚があって、そこも堺の生き方にひかれたのかも知れない。
膨大な固有名詞が登場し、かなり厄介な作品だけれど、読んでよかったと思う。題材となった堺だけでなく、著者の黒岩氏にとってこれが死の直前の作品だったという点もある意味衝撃だった。研究者のように精密に調べあげ、丹念に練り上げられた文章は圧巻。 -
大逆事件で多くの同士を失うも、文筆の何でも屋、売文社を起こして運動を続けた明治の社会主義者、堺利彦の人生を辿る。
厚い本ながらなかなかに楽しい一冊。
当時に言論の自由がいかになかったか。その中で堺がいかにおおらかに、時にユーモラスに冬の時代を生きたか。
売文社という響きがなんともいい。文筆の何でも屋をやって仲間を養っていく。ペンでパンを稼ぐ。語学を活かした翻訳や代筆などをこなしつつ、運動につながる翻訳や文筆も書いていく。堺の生き方から学ぶことは多い。
堺の生き方で最も参考にしたいところは人望が厚かったところだと思う。誠実に生きるということは時代や場所を問わず大事なことだと改めて実感。
この本ができたのは売文社の成立からちょうど100年。そしてこの本を書いた直後に作者の黒岩比佐子さんは亡くなられている。 -
読みたいタイプの本と違った。
乗りきれず挫折トホホ
時間をおいて再トライやな。 -
筆者が命をかけるようにして上梓した最後の作品。
冬の時代を生き抜いた堺利彦の人生と重なり、ずっしりとした重みを感じる。
生きることの使命とは。
「然し決して死にたくはない。死にたくはないが、又善く死にたいといふ欲望もある。」
2人の思いがこの言葉に集約されている。 -
大逆事件によって盟友の幸徳秋水ら同志12人を殺害された悲しみと怒りのなかで、「売文社」という人を喰った名前の出版プロダクション会社を設立し、同志たちを食わせ、「冬の時代」の社会主義運動をささえた堺利彦の人間性と才能、ユニークな闘い方に新鮮な光をあててみせた力作、労作である。
1910年の大逆事件で秋水を失い、1923年の関東大震災で大杉栄を失った堺自身、つねに官憲のターゲットになっており、いつ暗殺されてもおかしくなかった。天寿をまっとうできたのは、ほんの偶然にすぎない。著者はそのことについて、冒頭でこう述べている。
「私は、あえて『幸運にも』といいたい。”ドラマチックな死”ではなかったために、堺利彦という名前が人々の記憶に残らなかったとしても――。幸徳秋水や大杉栄の死は、あまりに無惨である。」
著者の黒岩さんの視点は、ここにはっきりと現われている。ともすれば運動は、先頭にたつひとりの英雄的な個人の活躍に象徴されがちだ。その人が非妥協的で、運命が悲劇的であるほど、評価も高まる傾向にある。そうした中で、運動の火を消さず守り、人を生かすことに徹した堺の生き方をこれほど魅力的に描き出すことができたのは、やはり黒岩さん自身の視点と問題意識の確かさによるものだろう。
大逆事件によって運動のリーダーたちを失い、国家権力による厳しい弾圧をうけたこの時代、堺自身の分析によれば、ある者は一方の極端に走り、他の多くは圧力の下に雌伏したが、その中にも色々の段階がある。どうにも仕方がない、できるだけのことをして時期を待つという者、しばらく猫をかぶって世を欺くという者、そして、社会運動に絶望した結果、ただ自己一身の鍛練に慰藉と希望を求める者もあった。売文社をついに廃業に追い込んだ高畠素之のように、天皇制を奉じる国家社会主義を標榜するに至った者さえあった。
無惨に殺された者たちの遺族を見舞いながら、かつての同志たちが方向性を見失い、心ない裏切りさえ行うありさまを見ていた堺の心境は、いかばかりだったか。しかしそうした中にあってさえ、ユーモアを忘れず、妻と娘をこよなく大切にし、同志らのふるまいを責めずに面倒を見、必ずしも意見を同じくしない幅広い人々とも交友を保ちながら、運動の火を絶やさずに守り続けた。あくまで人を大切にした堺の人間性は実に魅力的だ。と同時に、タイトルにもある通り、これが堺の闘い方であったことを忘れてはならない。問題は、冬の時代においてどう身を処すか、ではない。どう闘うかという問題なのだ。
私たちが生きているのは、堺たちが生きたのと同じ「冬の時代」ではないけれど、「春の時代」でもない。それは、今ここで繰り返し問われるべき問いであり、だからこそこの本は、繰り返し読まれるべき価値がある。