- Amazon.co.jp ・本 (374ページ)
- / ISBN・EAN: 9784062632577
作品紹介・あらすじ
愛を求めて、人生の意味を求めてインドへと向う人々。自らの生きてきた時間をふり仰ぎ、母なる河ガンジスのほとりにたたずむとき、大いなる水の流れは人間たちを次の世に運ぶように包みこむ。人と人とのふれ合いの声を力強い沈黙で受けとめ河は流れる。純文学書下ろし長篇待望の文庫化、毎日芸術賞受賞作。
感想・レビュー・書評
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遠藤周作文学忌 1923.3.27〜1996.9.29 周作忌
それぞれの人生の それぞれの意義を求めて、インドツアーに5人の日本人が参加する。
妻の生まれ変わりを追う男。
幼児期から動物への愛が深い童話作家。
戦時中、自分を助ける為、戦友に深い罪を負わせた老人。
当時の新婚夫婦。
他人を愛することができない離婚歴のある女性。
彼らを案内するインド哲学を学んだ添乗員。
彼らは、ガンジス河のほとりで日常的な死と祈りを見る。
キリスト教の神父として修行しながら、教えの矛盾に答えを出せなかった日本人神父は、異端者として教会を追われていた。彼は、インドのヒンズー教の修道院に受け入れられ、そこでキリスト教徒として修行を続けていた。
彼らの人生を時折重ねながら、それぞれが信じるものは何か、なぜ日本にキリスト教が根付きにくいのか、問われているように思います。
罪も業も全て飲み込み転生さえも信じられるガンジスのような深さが求められているものかもしれません。
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遠藤周作のテーマ「キリスト教と日本人」の最終章は、日本でもヨーロッパでもなくインドのガンジス川で展開する。そこに何より唸った。
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小学生でも中学生でも高校生でも就職して間もない頃でもなく、病を経た今読んだこらこそ、その河の“深さ”を、感じられたのだと思う。
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「わたし、必ず生まれ変わるから…たから、わたしを見つけて…約束よ…」
磯辺の妻は、癌を患い、最期の時にそう言い残してこの世を去った。
その妻の言葉を胸に、磯辺はインドツアーへと参加する。
そのツアーには、人生への虚無感が常に拭えない美津子、結核による過酷な闘病を経験した童話作家の沼田、戦時中のビルマから生き残った木口も参加していた。
一方、キリストの愛に感銘を受け、神父になるために修行をつんでいた大津だったが、彼の考え方は基督協会から理解されず、異端視されていた。
そして大津もまた、インドの“深い河”のそばで、生きていた…
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本書が最初に出版されたのは1993年。
その頃のわたしは、小学生でした。
あれから約30年の時が経ちましたが、「深い河」は小学生でも中学生でもなく、今のわたしだからこそ、こんなにも響いたのだと思います。
小説の中では磯辺、沼田、木口、美津子、そして間接的に大津の半生が書かれています。
それぞれの命に刻まれてしまった、深い苦しみは壮絶でありましたが、唯一、美津子の悩みだけはひどく抽象的に感じ、悩みそのものが今ひとつ理解できませんでした。
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「日本人から見ると、お世辞にも清流とはいえません。(中略)しかし、奇麗なことと聖なることとは、この国では違うんです。河は印度人には聖なんです。だから沐浴するんです」(174ページ)
「さまざまな宗教があるが、それらはみな同一の地点に集り通ずる様々な道である。同じ目的地に到達する限り、我々がそれぞれ異った道をたどろうとかまわないではないか」(310ページ)
「死者の灰を含んだ水がそのままこちらに流れてくるのに、誰もがそれを不思議にも不快にも思わない。生と死とがこの河では背中をあわせて共存している。」(341ページ)
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人は生まれ、生きて必ず死ぬ。
ならば、死への道はどこをたどろうと、かまわないでないか。
引用した310ページの言葉は、わたしにはこんな風に聞こえました。
逆に言えば、人の数だけ人生があるのが当たり前であり、その人生に優劣や勝ち負けをつけ、正しいとか間違っているという評価をくだすのは、おかしい。
そう思う一方で、木口の戦争体験のくだりは、言葉では言い表せないほどの壮絶なものであり、そこでの価値観は、何が正しくて何が間違っているのかすら考えられないほど、生と死がそこにただ横たわった世界を読むことで、人を傷つけてはならない、という理が、戦争の前に脆くもくずれさる様子に、言いようのない気持ちになりました。
ひとりひとりの抱える生きる苦しさを、深い河は何も言わず、ただ生と死が同時におなじ時を流れていくのを、ただそのままに受け入れています。
宗教がどうだとか、どう生きたかとか、何を悩んでいるのかとか、そんなことを河は一切問いかけません。
そんなことを問いかけているのは、人間だけなんだなあと、おもいました。
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『沈黙』よりも読みやすく考えさせられる小説だった。
「必ず…生まれかわるから、この世界の何処かに。探して…わたしを見つけて…約束よ、約束よ!」
亡くなった妻を求めインドへやって来た磯辺。
彼と同じツアーに参加した沼田、木口、そして愛に枯渇し、信じられるものを持たない美津子もまた自らの生きてきた時間を振り返る。
ガンジスの河に生まれ死に行く人々を見つめていると、人は心の中に溜め込んだ思いを全て吐き出してしまいたくなるのだろうか!
遠藤周作は、作中人物の一人である大津に自己の思いを語らせている。
神父になるため、神学校で学んでいた彼が批判された汎神論的な感覚「日本人としてぼくは自然の大きな命を軽視することには耐えられません。いくら明晰で論理的でも、このヨーロッパの基督教のなかには生命のなかに序列があります。
よく見ればなずな花咲く垣根かな、は、
ここの人たちには遂に理解できないでしょう」
「神とはあなたたちのように人間の外にあって、仰ぎみるものではないと思います。それは人間のなかにあって、しかも人間を包み、樹を包み、草花をも包む、あの大きな命です」
「中世では、正統と異端の区別があったが、今は他宗教と対話すべき時代だ」…
など大津の言葉から、遠藤周作が生涯「日本人にとっての基督教」とは何かを問い続けていたのだとわかった。
神父になれなかった大津。朝の光の中を、彼がアウト・カーストの老婆を背負ってガンジス河に歩く姿が心に残った。
遺体にカメラを向けた三條の代わりに殴られ危篤となった大津の「玉ねぎ」が転生するのはもしかしたら美津子なのでは?…と思ったが、あまりの唐突な終わり方に正直驚いてしまった。
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素晴らしい作品を読んだと思ったのが第一印象。
死も生も全て受け入れてくれるガンジス河。
ラストがあっさり終わった。もう少し続きが読みたかったが、これはこれでありかも。
今後もまた読むだろう。
『沈黙』も良いがこちらも良かった。
インドに行ってみたいという気持ちが最近強くなりつつある。 -
自粛の中、昔の本を引っ張り出してきた。内容は忘れていた。奔放で華やかな美津子が魅力的にみえた。映画では秋吉久美子さんとのこと、うなずける。
「子供みたいなことを言わないで。あなたも充分、楽しんだんだから、こういうこと、そろそろ終わりにしない」こんなセリフをさらっと言えるなんてやっぱり悪女かな。
大津よりも自分の孤独で精一杯、偽善のボランティアをし、誰も心から愛せない、なにをしても満たされない。愚行の奥にXを欲しがっている。がXは何なのか理解できない。「少しだけわかったのは、それぞれの人が、それぞれの辛さを背負って、深い河で祈っている光景。人間の深い河の悲しみ。その中にわたしもまじってます」と。インドの旅で探し物のXは大津の中にあった。が衝撃的なラスト。
今世界で起きていることも深い河かもしれない。 -
大学卒業後くらいに読んだのが初読で今回は再読となります。初読時の記憶はあやふやでストーリー展開はほとんど覚えていませんでした(テーマについては記憶あり)
以下感想。
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何度も何度もくりかえし顕われる、弱き者傷ついた者に、ただ寄り添う「誰か」の存在。
奇蹟は起きない。奇蹟は起きないけれど。
神はいるのだ。
泣く私を慰めて頬を撫でる伴侶のうちに。
失意の伴侶の傍らに立つだけの私のうちにも。
つらい失恋を癒す音楽に、孤独に立ちすくむ人を包む陽光に、言葉を持たず手をそっと舐める犬のうちに、神はいる。
虐げられた者、弱き者、醜い者、欠落を抱えた者、罪を犯した者の傍に神はある。
沈黙してただ寄り添う神は、この大気に溶け込んで在るのだ。
遠藤周作の描く神の姿は、なんとちっぽけでなんと優しいのだろう。
泣く者の涙を止めることもできない無力な神は、しかしながら決して誰をも見捨てることなく誰の人生にも同伴する。 -
「どこかで必ず生まれ変わるから、絶対に私を見つけて」の一言を残し癌で亡くなった妻、その思いを胸に生まれ変わりを探しにインドへ向かう磯部。
何かに惹きつけられるように、人には言えない様々な思いや業を背負う磯部を含む5人の主人公がインドへと向かって行く。やがて行き着くところは、ある人は死後の遺灰を思いを込め流し、ある人は巡礼のために沐浴を行う、そんな生と死が共存する聖なる河ガンジス。
それぞれの過去の出来事、そしてインドでの行動に、人が委ねるものは何なのか?考えさせられた。さすが遠藤周作。
映画良さそうですね。検索してみました。
深い河は、遠藤周作さんの他のキリスト教物に比べて、現実感...
映画良さそうですね。検索してみました。
深い河は、遠藤周作さんの他のキリスト教物に比べて、現実感があるというか、日本人に理解しやすい感じでとても良い作品でした。