東京自叙伝

著者 :
  • 集英社
3.64
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感想 : 51
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  • Amazon.co.jp ・本 (432ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784087715590

感想・レビュー・書評

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  • この作家が何を書きたいのか、イマイチよくわからないんですよね。困ったもんです。

  • すごいボリュームでした。シニカルな視点と語り口が面白くて、ずんずん興味深く読み進めていけるけど、だんだんと笑えなくなる、どんどん恐ろしくなっていきます。野次馬根性で大騒ぎし、すぐに忘れてしまい、今が良ければいいと人を使い捨てにしていく。個の区別が無くなってきて、ドロドロと溶け混ざり合うように〈みんな私〉と化していく。ああ、これは‥自分自身なのだなと実感してしまうから。この作品を読んで、一層足がすくむ気持ちと、何かのきっかけにできるのでは、という気持ちとが混在しています。

  • 文学

  • ☆東京の地霊、歴史の霊か。

  • 単行本は確か見出しが岩波新書ふうに配置されていた。
    単行本の真っ赤=火事のイメージ、帯の言葉溢れ出る感じ、に比べると、文庫の表紙はすっきりしすぎているかな。
    でも、背表紙の水色+表紙のピンクにちょこなんといる鼠を見て「カワイイー!」とジャケ買いしたほんわか女子が、読後ガツンとやられている光景を想像したりして。実際にその頭を「漫画マウス」にやられてしまえばなおよいが……いや、ないか。

    読み始めて当初連想したのは三島「豊饒の海」の輪廻転生、中上「百年の愉楽」の反復。
    中盤で、違うな、転生でも反復でもなく、鼠の群れのように同時存在する私の語りなのだな、と気づく構成になる。
    また特異な視点から歴史の語り直しをするだけでも価値があるのに、さらに東京の地霊が日本の自画像だと浮き彫りになっていく小説でもあるのだ。
    無責任の体系そのもの、中心は空っぽ、「なるようにしかならぬ」とは「勢いで成っていく」ことだ、といった批評は大東亜戦争に引き付けてずっと論じられてきたが、
    それが戦後にもそのまま続き、高度成長、バブル崩壊を経て311へ。
    そう、ひねりにひねった311後文学なのだ。

    それにしてもこの地霊、なんとなんと奥泉的な人物?なのだろうか。
    饒舌で軽薄で激しやすく冷めやすく責任感なし。ユーモラスでアイロニカル。
    蛹の私を孵化させる火事は野次馬根性的に好き。
    地霊にとってみれば諸行無常など当然なのだ。
    彼の行動原理は唯一、愛着のある東京にいたいということで、それ以外はどうでもいい。無責任一代記。

    この私が拡散と凝集を繰り返す。
    前半は業が深いゆえの悲劇的な死を迎えるのに対し、
    後半、日本が東京化し日本人が鼠化することで視点物の特徴は薄れていく。
    このあたり、やはり「豊饒の海」の尻すぼみと似ている。

    思い返せば奥泉はいつも暴力を描いてきた。
    理不尽に振るわれる暴力と、暴力の内面化。システムとしての暴力。
    あっけらかんと陰惨の同居。
    その代表として最たる例が、最終章の「凄まじい光景」。
    言葉を失ってしまったよ。

  • 2018.2.17読了 13冊目

  • 主人公は「東京」。正確には東京の地霊。
    縄文以前から「そこ」にいる地霊から見れば、東京なんてにわかにぽっとできたなんだか雑然とした都市。そこが滅びても、地霊にとっては痛くもかゆくもない。地霊はただそこにとどまり、人間が自滅してゆくさまを冷徹に見ている。

    本作はもしも「私」が複数いたら、という思考実験にもなっている。また、夏目漱石の『吾輩は猫である』の裏ヴァージョンにもなっており、語り手は人である前に鼠なのだ。猫が苦沙味先生を観察していたように、鼠が3.11後の東京の行く末を凝っと見据えている。

  • 最初の章は、混沌の魅力に溢れている。
    少しずつ単調になっていくのは、自叙伝ゆえ仕方がないけれど、「それも私だ」「鼠だ」のリフレインゆえ。

     
     

  • これはまるで丸山真男の歴史的古層だ。
    『即ち「なるようにしかならぬ」とは我が金科玉条、東京と云う都市の根本原理であり、ひいては東京を首都と仰ぐ日本の主導原理である。東京の地霊たる私はズットこれを信奉して生きてきた。なるようにしかならぬーーこれより他に正しく人を導く思想ははない。なにしろ世の中はなるようにしかならぬのだから、それもマア当然です。』(p349)
    『私たちが対話への欲望や希望を抱いて居ることは疑えぬ。話し合いを通じて共存共栄したいと心より願って居る。ソレは疑えぬ。ならば殺し合わずにサッサと話し合えばよさそうなものだが、ソウならぬのは、ソウならぬだけの理由があるので、つまり話し合いたい気持ちは山々なのだが、やり方が分からぬのデアル。対話の方法がないのデアル。言葉はあり、思考はあるが、皆で同じ事を考え、同じ事をワーワー云うことしか鼠人間の私たちは基本できぬ。違いはあるようでも総じてみれば似たような内容を全員が口にしてワイワイ騒ぐことしかできぬ。だからとても対話にならぬ。考えてみれば全部が同じ私なのだから、それも無理はありません。』(P418)
    我々は経済成長のために「三本の矢」がどうだとか、2020年の東京オリンピックがどうだとか、ワイワイ騒いでいるけれど、何も変わっていない、所詮なるようになる、そうとしか思っていない。
    もう勢いだけで生きていくのは無理な世の中になっているのに、それに気づかず邁進するのでは、自ら滅びの道を選ぶ鼠人間ではないか。

  • 共産党の天下になりそうな情勢となったら、先頭きって赤旗を振るし、猫が支配するならマタタビを賄賂に猫の首領に取り入るだけの覚悟はある。と、べつに偉そうに云うほどのことじゃありませんが、ドウ足掻いたって万事なるようにしかならぬと、根本のところで諦めて、とりあえず今がよけりゃいいと開き直りつつ、絶えず時流に棹さすのが自分の流儀と云えば流儀であるらしい。マアこの流儀は、私に限らず、世の多くの人士が密かに信奉実践するところでしょうが、どちらにしたところで東京は、と申しますか、日本はいずれ天変地異とともに滅び去るわけだから、あまり深刻に考えても仕方がありません。(p.245)

    浮かれていたと云われればまさしく御説の通り。しかし寄せくる波に人が浮かれるのは必然だ。波に逆らう方がどうかしている。と申しますか、どのみちなるようにしかならぬのだから、浮かれるべきときには浮かれて居るのが正しい。(pp.346-7)

    さすがは近代日本を設計した一流官僚のエリートだけのことはある。図らずも宇治田が漏らした本音、即ち「なるようにしかならぬ」とは我が金科玉条、東京と云う都市の根本原理であり、ひいては東京を首都と仰ぐ日本の主導的原理である。東京の地霊たる私はズットこれを信奉して生きてきた。なるようにしかならぬーこれより他に正しく人を導く思想はない。(pp.348-9)

    東京在住ネズミにんげんの私はきわめて諦めがよいらしい、とソウ考えたとき 私が金科玉条としていた思想ーと云うほどのものではありませんが、成り行きに棹さす思想とは、即ち、滅びの思想デアル、との真理に私は突き当たった。成り行きに任せ、やがて滅びる。万事それでよい。それ以外に人が生きる法はない。どうやら私はそのように考えても生きてきたらしい。だから滅亡を前にしてじつに心穏やかである。(p.417)

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著者プロフィール

作家、近畿大学教授

「2011年 『私と世界、世界の私』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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