逆説の日本史2 古代怨霊編(小学館文庫): 聖徳太子の称号の謎 (小学館文庫 R い- 1-2)
- 小学館 (1998年3月1日発売)
- Amazon.co.jp ・本 (528ページ)
- / ISBN・EAN: 9784094020021
感想・レビュー・書評
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日本史の知識がだいぶ危うい私でも
一応、天智天皇と天武天皇(大海人)が兄弟くらいは
憶えていたのだが、
著者によると「年齢でいうと天武が兄」に当たるという。
この主張にはびっくりした。
でも確かに、我々のフツーの想像力の範疇では
「長兄相続が当たり前でしょ」
となってしまうが、
歴史の中の権力者たちは一夫多妻が当たり前であり、
となると妻の出自、家柄が非常に差別化要因になってくるわけである。
格の低い家の母を持っていては、年齢に関わらず、
すなおに相続できるケースはほとんどないということだ。
天武の父親が著者の推論するとおりに外国人であるなら、
日本の歴代天皇史は「男系の相続」でもなんでもないじゃん、
というところか。
万世一系自体も、著者は1巻で否定している(3系統あった、と)。
マルクス主義的な「歴史法則思想」に手厳しい著者であるが、
皇国史観についてもガッツリと否定して、
とにかく「真実は何か」を推論で追求していく著者の書きぶりは
心地よいと共に、
歴史というのは、どろどろしたリアルな人間の相互作用なのだということを
よくよく考えさせられる。
「賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ」
という名言はあるが、ここでいう歴史が日本歴史学会のお題目のような
「史料至上主義」ではまったく意味はない。
人間の相互関係のリアルさのストーリーを想像する、という意味ならば、
これ以上ない学びであろう。
日本書紀にしても、「勝ったほうの大本営発表」という説明は
明快かつ、真実味がある。
その大本営資料に天武の年齢が載っていないとなると、
これはもう、怪しいを通り越して、「天智より年下じゃないだろ」という
ところに大いにうなずくばかりだ。
「勝てば官軍」とは言いえて名言であり、
だいたい負けたほうの言い分なんてものは抹消される。
中国の易姓革命もそういうことで、徳がない王だから討たれました、と
あとの「大本営発表」には書かれる。
現代のように、自由民主主義なんてものがない時代なんだから、
権力者に逆らうような「真実の史家」なんて、その時代にはほとんど
表に出られなかったというのは想像してみれば当たり前だ。
だが、その「当たり前」にたどり着けないのは、
結局私たちは現在を軸足に脳を無意識に働かせる性質を持つからだろう。
しかし本書で述べるように、おもしろいのは、
日本の場合だと、敗れたほうの「痕跡も全部消す」なんてことはなくて、
勝った方もせっせと祀ることである。
やっぱり、全知全能の「天」があって、その下に統治者たる皇帝がくる中国と、
そういう単一の「神」というべきものがない日本だと、祟りの恐れ方に
まるで差が出るのだろうかと思う。
2巻はいろいろ盛りだくさんだが、
「奈良の大仏は子どもが生まれない天皇の願掛け/祟り排除装置」
という説はとくにおもしろい。
たしかに、あれだけのものプラス国分寺なんて日本中に作ったら
庶民の負担は尋常ではないだろう。
それでも実行しようとするあたり、「度が過ぎて」いろいろ恐れていたのだろうなと思う。
私はいままで、どうして古代の都はしょっちゅう捨てられて
あっちゃっこっちゃ行くのか不思議だったのだが、
本書を読んで「前統治者が権力闘争の中で恨みを残して死ぬと場所自体がケガレるから」
という分かりやすいロジックで理解できた。
武士の活躍以降、天皇は「武力、権力」としてはどんどん小さくなるわけだが、
言い換えるとそれまでの時代の天皇(家)というのは
日本最強最大唯一の超権力一族で、骨肉の争いを繰り返していたということなのだろう。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
神神の微笑
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この2巻は、逆説の日本史1巻と同様、かなり違和感がある。井沢氏の、怨霊信仰や、言霊という古代から日本人に深く信じられてきた、宗教的視点をもとに、証拠主義に固執する古い体質の専門家を批判するのは痛快だ。実際、3巻以降、大きな歴史の流れが、資料によって明らかになる時代は、氏の手法によって、歴史が、生き生きと蘇ってくる。一方、学者批判に酔いすぎて、井沢氏も同じ轍を踏んでいるように感じる。聖徳太子のことや、天智天皇と天武天皇の謎等を、新しい視点で分析するのは面白いが、氏の仮説には、この時代の流れを読むための納得感が全くないのである。
日本書紀から知る6、7世紀の歴史の通説の一番の疑問は、なぜ、数世紀に渡って力を持った蘇我氏が、乙巳の変で一瞬にして滅亡し、影響力をなくしたのか。蘇我氏や他の豪族達の日本国創世期への貢献が、正史にほとんど書かれていないのはなぜなのかということ。小学校で初めて歴史を習って以来、無理やり流れる古代史に違和感を覚えて以来、この答えを探すのは、ライフワークでもある。歴史家の証拠主義批判もいいが、その違和感をぬぐい去る、井沢氏なりの筋の通った逆説の日本史を期待したが、それがないのである。
この巻の一番の失敗は、日本書紀の編纂を命じたのは天武天皇であり、内容は全て天武側の大本営発表だという通説を、疑いなく前提として全ての謎に関する論議を行なっていることだ。通説を批判しておきながら、通説を前提に話を進めるから、結論がよくわらなくなる。正しい歴史は確かめようがないが、少なくとも、正史日本書記がどういう意図で書かれかのような、その後の議論に大きく影響する大前提については、もう少し慎重になるべきだったと思う。それによって、同じ証拠で仮説を論じるときの結論が180度変わってしまうからである。
例えば、天智と天武が兄弟ではないこと、壬申の乱の意義、天武の死からその後の持統天皇までの一連の記述に関して、天武に不利なことが書かれてあると、天武の大本営発表なのに不思議だとしながらも、誰かが書き加えた可能性もある・・・と、無理やりこじつけて深堀しない。一方で、天智や中臣鎌足にあいまいなことがあると、天武が、正統な天智系を歴史から抹殺しようとしたからだと決めつけ、やはり対案を比較しない。
天武崩御後、草壁皇子への皇位継承に固執して即位した持統天皇が、天武系を抹殺して文武へとつなぐわけだが、それに全面協力しているのは、藤原不比等である。彼は、天智とともに蘇我氏を滅ぼしたとされる中臣鎌足の子であり、日本書紀の編纂に深く関与していたと氏も認めている。普通に考えれば、それ以降力を持つ藤原不比等こそ、中臣鎌足に始まる藤原と、同士天智の正統性の根拠に、日本書記を利用したと考える方がよっぽど自然に思える。乙巳の変から大化の改新を経て、この国を作ったのは私達だと主張するため、むしろ天智側の大本営発表が日本書紀ではないのか。そう考えると、数々のあいまいな記述は、むしろ天智側が言えない事実や、都合の悪い話を隠匿するためと考えられる。
彼らが、歴史から抹殺したかったのは、おそらく蘇我氏であり、藤原以外の全ての日本国創設の貢献者達である。特に蘇我氏は、日本創立の貢献どころか、律令制に反抗した、守旧派の悪徳一族というレッテルを貼られ、大化の改新で、後の天智となる中大兄皇子と、藤原の開祖中臣鎌足を歴史のヒーローにするのに一役買っている。そういう前提も考慮して、2巻のテーマである、聖徳太子の謎、乙巳の変、大化の改新、よくわらない白村江の戦い、壬申の乱でいとも簡単に天智を滅ぼした謎、長屋王の祟り等を、もう一度、検証してみてほしい。同じ証拠で、全く別の歴史が見えてくるはずである。 -
飛鳥~奈良時代の聖徳太子、天智天皇、天武・持統天皇、東大寺・奈良大仏についての当時の考え方を元にした優れた推察。当時の人間的な歴史の流れが物凄く府の落ちる形で解説されてる。週刊連載だったせいか分かりやすくしようとし過ぎたせいかちょっとしつこい文章になってしまってるのが少し残念。
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聖徳太子から聖武天皇の時代に至るまで、史実から読み取る歴史と日本人の感覚から推測する歴史を対比しながら当時を考察する。歴代の天皇に送られた諡号が意味すること、特に無念の死を遂げたと思われる推察が興味深い。また、天皇家に入り込もうとした藤原家の策略も興味深い。
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神話の国出雲に生まれ育った僕は、古代史が大好きです。
でも学校で習ったしょうもない古代史は大嫌いです。ロマンの介在しない歴史は、ただの暗記物。脳のメモリーの無駄遣い。 -
この人の本を読んで思うのは、歴史学者って本当にデタラメなんだなということ。もちろん、著者の説が全て正しいとまでは思っていない。しかし、例えば日本書紀は、その編纂者や時期などから内容はそのまま信じる訳にはいかないのは著者の言うとおりだと思う。にもかかわらず、学者の間ではそうではないらしい。原発問題でも分かったことだが、専門化でもダメな人はたくさんいる。専門化の言うことだから間違いない、とは言えないのは歴史学でも同じなのでしょう。
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えーと、とりあえず史料至上主義の権威ある学者の説はそんなに信用できない、と。井沢さんの説、大好きです。これからたくさん読みに走ります。歴史の謎は推理小説的に面白いわ~♪
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聖徳太子の称号の謎
・聖徳太子編―「徳」の諡号と怨霊信仰のメカニズム
・天智天皇編―暗殺説を裏付ける朝鮮半島への軍事介入
・天武天皇と持統女帝編―天皇家の血統と『日本書紀』の”作為”
・平城京と奈良の大仏編―聖武天皇の後継者問題と大仏建立
主張がブレるところもあるが、この章がいちばん井沢元彦の真骨頂を読めるのではないだろうか。
時代が下るにつれ、単純に事実を追う記述が多くなっていくが、ここではまだ怨霊についての記述で厚みがある。