雪国 (新潮文庫)

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  • Amazon.co.jp ・本 (224ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784101001012

感想・レビュー・書評

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  • ・2002年に通読したという備忘録が残っているが、たぶん中学生で挫折し、高校生で通読したはいいがよくわからず、大学生で再読してなんとなくわかった気がしたのだと思う。今回は、よりひしひしと。
    ・時系列でいえば3段階なのだ。この点もおそらく中学当時にはわかりづらかったのだろう。

    ・そして、左手の人差し指の記憶、というエグいエロスをさらっと書くことの憎さに、たぶん20年前もピンと来なかったのではないか……童貞だったし!
    ・また、「こいつが一番よく君を覚えていたよ」とよりにもよって再開時の一言目が臆面もなくそれかという非道さは、笑うしかない。「友だちにしときたいから、君は口説かないんだよ」という嘘の非道さも、また。
    ・そりゃ「あんた笑ってるわね。私を笑ってるわね」と詰られても仕様がない。また、199日目と数字で訴えられても、仕方ない。
    ・汽車、夕景色、窓ガラスが鏡になって、映画の二重写し……については、その後自分が通勤電車に揺られるときに思い出していたので、二十年弱川端の視点と共にあった、と言える。
    ・「徒労だね」というキーワードがあるみたいだが、視点人物が自らその言葉をキーワードに設定していた節があると思う。若さを喪い、かといって家庭人として成ることもできない、無為徒食というやはりモラトリアム的な……今風にいえば「大二病」なのだと思う。
    ・それに対して駒子、日記をつけて文化的であろうと噛り付く気概があったり、妊娠を想ったり(199日目というのも、日記上で数えていたのだろう)、帰ってと言ったかと思いきや、いてよと言ったり、酒で我を失ったり……、視点人物よりよっぽど「生きている」「もがいている」と感じた。少年にはまったく見えなかった魅力が、中年男性になって見えてきたが、中年女性はどう見るんだろうか。この女性に「一年に一度でいいからいらっしゃいね」と言わせる作者の鬼畜。行男の死に目に遭いたくないという思いは、半分はわかるけど半分は全然わからない、その点を全的に感じ取れる読者が、世の中にいると考えると、いつ誰がどんな状態で読むかによって生起する読書が異なるという現象が、面白い。
    ・で、中年男性として視点人物にも(愛憎半ばで)わかるっ/酷いっ、と思うのが、「ああ、この女はおれに惚れているのだと思ったが、それがまた情けなかった」という記述。こんなふうに男女の関係を断言してしまうって、人として終わりじゃないかしらん。まあ、「彼は昆虫どもの悶死するありさまを、つぶさに観察していた」と語り手=作者に語らしめる視点人物の異様さ……語り手と視点人物はこの時点でほとんどそっくりなので、川端があの眼の異様さを自身で語るという記述になっているのだが、もう凡百の柔弱な男には辿り着けない(辿り着きたくない)極北にいるのだと思う。感情移入できるかできないかで判断すればこの小説大っ嫌いという人もいるだろう。しかし、まずは文章の運びで読ませる。そしてポリコレの時代ますます男性が言いにくい本音が、当の男性にとってすらギョッとするレベルで描かれているので、捨て置けない。

    ・ところで本書で視点人物が見る女性について順番で並べてみたら……葉子駒子駒子駒子駒子駒子葉子駒子葉子駒子、という感じ。10分の3くらい記述に割いた葉子の描写が、読み手がたじろいでしまうくらい鮮烈なのだ。「東京に連れて帰ってください。駒ちゃん(に)は憎いから言わないんです」と。冒頭で、まるでフェアリイかアイドルかのように見えた葉子が、急に地金を見せつけてきた瞬間の視点人物と同じ眉の顰め方を、読んでいてしたと思う。オボコな少女と幻想をかぶせていた相手が意想外の意思を差し出してきた時の驚き……人が一人いれば当然なのに、つい相手を見下すことで愛でる心理的機序がある。
    ・だからこそ「君はいい子だね」を連発して、「行っちゃう人が、なぜそんなこと言って、教えとくの?」と復讐される。男の身勝手への激烈なアンチも含まれているが、……
    ・「さあと音を立てて天の河が島村のなかへ流れ落ちるようであった」と、ひとり自然と感応して陶酔する身勝手さを、感じた。冷酷だ。でもだからこそ成立する美しさでもある。

  • 夏?に購入したので
    冬になるのを待ち読了

    読んでて村上春樹さんの
    「ノルウェイの森」を思い出した

    どこかふわふわしている主人公
    2人のキーとなる魅力的な女性
    印象的な火事のシーン


    当時の情景や風俗が
    あまり上手くイメージ出来ず
    昭和が遠くなったと感じた

    ブックオフにて購入

  • 川端康成を読むのはこれで二作品目。冒頭の夜汽車に揺られる一連の描写が、どことなく芥川の『蜜柑』にも似て、たいしたことを描写しているわけでもないのだけれど、物憂げな心持ちにさせる。

    銀白の雪国、閉ざされた世界、島村のいうように「徒労」でしかないのかもしれない駒子の、その無垢さを象徴するかのように、それはいつも白い。窓越しの駒子の赤い頬との対比が、まるで美人画のようで、たおやかなれど官能的でさえある。

    おわりは突然やってくる。以前に読んだ『みずうみ』もそうだが、彼の物語は唐突にはじまり、唐突におわる。まるで登場人物たちの人生を適当な尺で切り出してきたかのように、まったくもって完成しない。着地点がわからないから戸惑うのだけれど、現実の日常にもそれがないのと同じで、彼の語り口はどことなく真に迫るものがある。わたしには永遠に訪れることのできない雪国が異次元に存在して、彼はそこに出入りができるかのようだ。

    架空の世界が現実を肉迫する。寂しくなったら、慰めがほしくなる。そんなときは彼が切り出した別の人生の一コマをまたのぞいてみたいと思う。

  • ストーリー云々よりも、ただただ雪国の美しい情景が目に浮かぶ…
    小説というより、芸術作品だと思いました。

  • 言わずと知れた名作であるため、一読しようと本書を手にとった。本書は、主人公の島村がトンネルを越えて雪国に赴き、美の追求に臨む物語である。著者が本書に込めた思いを汲み取るのは難しかった。物語の内容が読者の想像に委ねられるところが多く、それ故に難解な作品になっていると感じた。非日常が演出されていることが理想である雪国で、島村がその理想の維持のために恋愛など一切の日常を寄せ付けまいとする姿は印象的だった。本来は「徒労」が本作の題になる予定であったこともあり、島村を愛する芸者の駒子の様々な行動が徒労に帰する様子は読んでいてとても寂しい。読了後には、なんとも言えない虚しさが残った。

  • 先週雪が降ったからというわけでもないけど、ふと手に取って読んでみた。
    確かに美しい日本語、美しい世界。しかしよくわからない。ただ、わからないなりにも何か惹かれるものがあるという不思議な作品。
    若いころは「美しい日本の私」的なことを嫌悪していた。「あいまいな日本の私」の大江健三郎の方に共感していた。したがって川端作品を全然読んでいない。でもこの年になって、英語を勉強し始めたこともあって、逆にどんな日本語なのかと興味が湧いてきた。日本文学の美しい日本語を味わってみたくなった(←ネイティブの特権)。

    わたしの所有しているのはものすごく古い、昭和52年78刷の新潮文庫(表紙が平山郁夫)で、解説が伊藤整。
    まず『雪国』は『枕草子』の系譜にあると述べられる。
    「『枕草子』にある区別と分析と抒情との微妙な混淆を、どこの国にもとめることができよう。『雪国』はその道を歩いている。『枕草子』の脈は、私は俳諧に来ていると思う。それは和歌の曲線を不正確として避けた芭蕉、いなそれよりももっと蕪村に近いあたりをとおり、現代の新傾向の俳句の多くにつながる美の精神である。そして、突然泉鏡花において散文にほとばしり、それ以後散文精神という仮装をして現れた物語文学に押しのけられ、押しつぶされて消えそうになりながら消えず、文学の疲労と倦怠の隙間ごとに明滅していたが、川端康成において、新しい現代人の中に、虹のように完成して中空にかかった。」
    『雪国』について、具体的には、
    「島村のまわりに作られる世界は、現実の描写が、雪や家屋や風俗や虫などでかこまれていながら、ほとんど抽象に近くなっている。人間の中から、激しい思念や、きびしい呼声や、もっとも細かな真心からの願いなどのみを取り、外の無意味な具体性を棄ててしまう。」「島村はその感覚する『美』の一点においてしか生活していない。」
    そして最後はこんな文章で締められる。
    「生きることに切羽つまっている女と、その切羽詰りかたの美しさに触れて戦いている島村の感覚との対立が、次第に悲劇的な結末をこの作品の進行過程に生んで行く。そしてその過程が美の抽出に耐えられない暗さになる前でこの作品は終らねばならぬ運命を持っているのである。」

    「枕草子」~「俳諧」~「俳句」の系譜にあるというのは面白いなあ。
    確かに感覚的というか詩的というか、ストーリー性のあるお話ではないから納得する部分もあり、でもよくわからないとこもあり…かなあ。

    ちなみに駒子のセリフが、映画『山の音』の原節子の言葉遣いとそっくりだった(時代…しかも同じ作者…)。駒子のセリフを読みながら、原節子の口調が頭の中で蘇るのだった。

  • 「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」に始まり、「国境の山を北から登って、長いトンネルを通り抜けてみると、冬の午後の薄光りはその地中の闇へ吸い取られてしまったかのように、また古ぼけた汽車は明るい殻をトンネルに脱ぎ落としてきたかのように、もう峰と峰との間から暮色の立ちはじめる山峡を下っていくのだった。こちら側にはまだ雪がなかった。」で帰京。
    主人公の島村も芸者の駒子もお互いに成就しない恋と分かっている関係が素直な行動や離別を選択させない。しかし、最後の葉子のシーンで現実に引き戻され、やはり一緒になれない事を強く思い出させる。
    美しくて具体的な表現にあたかも自分が追体験しているような、そして淡い恋心がよみがえる。
    川端康成は2・3歳で父と母、7歳で祖母、15歳までに姉と祖父を亡くしている。68年にノーベル文学賞を受賞、当時三島由紀夫と共に候補者だった。その後、彼を追うように72年に自殺。
    作品の美しさや透明感と裏腹に悲しい人生だ。いや、悲しい人生ゆえに生み出された純粋な文学と言える。

  • 雪のシンシンとした美しい情景が目に浮かんだ。

  • 昭和52年10月30日 79刷 再読
    冒頭の、美しく有名な描写から、成就することは無いと決まっていたと思われる恋愛小説。もう、古典に近いのかなあ。
    ここ数年、着物に興味を持って着付けを習ってみたり、本を読んだり、多少の知識を得た。さりげない駒子の着物に関しての描写、後半部分での雪国の縮織物の情景と、昔は気がつかなかった、文章の色香を感じる事ができたのは収穫。

  • 大好きな本のひとつ。 ノーベル文学賞というのは極めて優秀な訳者であり理解者が存在して成せるということを明確にわからせてくれた一冊。

著者プロフィール

一八九九(明治三十二)年、大阪生まれ。幼くして父母を失い、十五歳で祖父も失って孤児となり、叔父に引き取られる。東京帝国大学国文学科卒業。東大在学中に同人誌「新思潮」の第六次を発刊し、菊池寛らの好評を得て文壇に登場する。一九二六(大正十五・昭和元)年に発表した『伊豆の踊子』以来、昭和文壇の第一人者として『雪国』『千羽鶴』『山の音』『眠れる美女』などを発表。六八(昭和四十三)年、日本人初のノーベル文学賞を受賞。七二(昭和四十七)年四月、自殺。

「2022年 『川端康成異相短篇集』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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