- Amazon.co.jp ・本 (336ページ)
- / ISBN・EAN: 9784101025056
感想・レビュー・書評
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今年1番苦労した本。
292ページ中、注解が58ページ!文が難しかった。
大石内蔵助、馬琴、松尾芭蕉などが出てくる話、文明開化の華やかさや侘しさが描かれた話、とても興味深かったのだけど、今は疲れた〜って気持ちの方が強い(〃∀〃)ゞ
好きな話、「或日の大石内蔵助」「一塊の土」。
或日の大石内蔵助…仇討ちが世間で称賛されていることを内蔵助はどう思うか?内蔵助の微妙な心理。
12月14日深夜、四十七士を偲んで。
「あらたのし思ひははるる身はすつる、うきよの月にかかる雲なし」
開花の殺人…従姉妹への思いを恋愛から家族愛に気持ちを切り替えたつもりが、うまくいかず。彼が殺したのは…。
枯野抄…松尾芭蕉の臨終の時に側にいた弟子たちの様々な思いを描いている。え〜
開花の良人…浮気を知っても、どんな事があっても奥さんを愛すことが本当のアムウルなのか?
舞踏会…人生とは花火のよう。キラキラした話。
秋…妹と同じ人を好きになり、身を引いたが…。
庭…命をかけて庭の再建をした叔父。それを手伝った、廉一。
お富の貞操…主人の猫の命を守るか、自らの体を差し出すか。お富の貞操は…。
雛…旧家が没落していく様を雛を通して描いている。雛人形は栄華の象徴なのか。
あばばばば…恥ずかしがりな初々しい少女から「あばばばば…」へ。
一塊の土…嫁姑問題。夫亡き後、自分が外で働かなければと頑張る嫁。最初はそれが嬉しかった姑だが、家の中の仕事、子育てすべて押しつけられ、腰が曲がった自分にはキツすぎると思うようになるが…。昔は家電製品がなかったので大変だったろう。
年末の一日…夏目漱石のお墓参りに行くが…。帰りにお産の後に出てくるものを捨てる車を押す手伝いをする龍之介は何を思う…。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
短篇集。全13篇。どれもはじめて読んだ。
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芥川龍之介は「鼻」や「羅生門」など平安に材を取った作品が知られているけれど、江戸から明治を舞台にした作品も魅力的です。
「或日の大石内蔵助」は討入後、肥後細川家にお預かりになった大石の心理に新しい解釈を与えるもの。「枯野抄」は芭蕉臨終の場に集まった弟子たちの心理を丹念に描いた作品。
いずれも松本清張の初期犯罪小説を読むように人間心理の複雑さ、玄妙さに触れ得た気持ちにしてくれます。
表題作の「戯作三昧」は、江戸天保期に活躍した戯作者、南総里見八犬伝の作者で知られる滝沢馬琴が主人公。日々の社交、自作への世間の毀誉褒貶、生活にまつわる様々な気がかりを描き出しながら、創作に打ち込む主人公に、芥川自身を重ね合わせています。
夜半、芸術のインスピレーションが馬琴に降りてくる場面のスピード感と迫真は鬼気迫るものがあります。
「始め筆を下ろした時、彼の頭の中には、かすかな光のようなものが動いていた。が、十行二十行と、筆が進むのに従って、その光のようなものは、次第に大きさを増して来る。
(中略)
頭の中にはもうさっきの星を砕いたようなものが、川よりも早く流れている。そうしてそれが刻々に力を加えて来て、否応なしに彼を押しやってしまう。
(中略)
光の靄に似た流れは、少しもその速力を緩めない。反って目まぐるしい飛躍の中に、あらゆるものを溺らせながら、澎湃として彼を襲って来る。彼は遂に全くその虜になった。そうして一切を忘れながら、その流の方向に、嵐のような勢で筆を駆った」
これは芥川の創作体験そのものでしょう。
芸術のミューズが降りてくる一瞬を捉えて離さない。「それ」が来た瞬間、その奔流に心身を預けきる。
生来の文学的センスを背景にさらりと書かれたかのように見える彼の作品の舞台裏で、このような心身を焼き尽くす時間があったことに驚きを禁じえません。芸術のもつデモーニッシュな側面。
だからこそ、時代を超えて人を惹きつけてやまない何かがあるのだと思います。 -
色々あります龍之介。
近頃の芥川熱が高じてまたしても手が伸びた。
名の通った作家なのに気軽に読める。しかし重みもある。それが芥川先生のいいところだ。
予備知識ゼロで読んでみた。裏表紙の概略すら読まなかったぐらいだ。
はじめが『或る日の大石内蔵助』だったので、いつもの感じに歴史物かと思ったが全然。
まず文章に驚いた。私が心開いているからと言うのもあるかもしれないが、芥川ってこんなにも心理や情景の描写に卓越していた作家だったっけ、と数ページ読んだところで考える。きれいと言うよりうまいのだ。そして掘り下げ具合も調度良い。淡泊な作家だと思っていたが内蔵助の心模様は妙に込み入り、しかしまたいい具合に引く、というよい綱渡りを見せる。私好みの塩梅だっただけに読んでいて思わずにやりとしてしまった。
本作に収められている中で私のお気に入りは『戯作三昧』『舞踏会』『秋』の三つ。
『戯作三昧』はあの馬琴が主人公で、その創作生活に関して書かれているのだが、それがまた何とも具合がいい。
作家を扱ったものって一般の人から見ると、わかったけれども、いわば陶酔と苦悩のあいだにたゆたわれてもなんだかな、という時がある。しかし、ここにかけての芥川の”わかりやすさ”は健在だ。創作家と読み手の距離とそれぞれの思惑がバランスよく書かれているのだ。くそ真面目に陥らない。“易しい”と言うより、“優しい”のだ。そして驚く程、文章が冷静。
二つ目の『舞踏会』コレは本書に収められている中では私の一番のお気に入り。
単純にこんな優美なものを書くんだ、という驚きがまずあった。後書きには『一塊の土』では芥川の育ちと繋がりが薄い階級の人間を扱ったものも見事に書き上げている。とあったが、私にはこちらの方がそういった驚きが大きかった。芥川と鹿鳴館って、異色の取り合わせではないのか。
いや、私には芥川について予備知識がないのでこういった、いわばミシマが得意とするような社交界が芥川と繋がらなかったのだろう。書くとしても花柳界、いやそれもイメージにないな。芥川ってやはり王朝物の名手ってイメージがあるのだ。
ミシマの場合だと執拗に描写を盛り込み散々期待させるようなじらしをするのが十八番だが、芥川はすらりとただ純粋に美しい物語として収めている。コレにも驚いた。何この人。『潮騒』びっくりの清らかさだわ。
『秋』もそれに同じ。キャクターは醜さを露呈せず、淀むことなくある。これの場合はラストが特に気に入っている。
全体を通して言える事だが、登場人物がみなそれぞれ確かな一本芯が通っている。それは善人だろうが悪人だろうが関係ない。一貫した素直な役割があるのだ。だからそこには人間らしいずるがしこい矛盾はない。わざとないようにしているのだろう。これを堂々とやるのがすごいよな。意図してか、それとも無意識にか。しかし作品の気質って人間性が非常に出るものではないだろうか。芥川の人となりを垣間見えるようで気になったりもするが、はてさて。
ともかく読む事に驚かされた。初心者の私だからかもしれないが、自分は長らく芥川に対して固定観念がつよすぎたのかもしれないと、ふと思う。
純文学モノという分野を読むときは、出来事を期待してはいけない、と私は考えている。
今回収録されていた物語のほとんどがそれに該当しており、大きな展開めいたものはなかった。特に芥川の場合は短編ばかりを書いた人間なので筋ときっぱりと言えるような形を読者が捉える前に物語は早々に決着を付ける。しかし、このぐらい簡潔に物語をまとめられるのならば、無駄な期待を高め、読者をがっかりさせることは少ないのではないかと思う。そう言う意味でも芥川は”優しい”のだ。
こういった類の小説は文章の美しさを味わい、また物語の芯を感じ、うまくいけば代弁されたことによる共感を経験する事がメインなのだ。
勿論、筋を持ってそれを表現できる作家もいるだろうが、それにはかなりの技量がいる。それは読み手の方にも言える事で、筋を追いかける事に夢中になって、終わった頃には、なんだっけ?ってなってしまう事もある。
と、ここまで書いてあの問答の受け売りめいているな、と気がつく。
ちょっと前なら迷うことなく大タニザキの肩を持ったが、今では波風立たないようにそっと芥川の味方をするだろう。
今更『痴人の愛』読めって言われたら思わず渋い顔が出てしまうだろう。あの小説が私に残してくれた教訓は「子供の名前に”ナオミ”と付けてはいけない」と言うこと。いや馬鹿にしているわけではないんだけどね。
いや、なんだか二人の論旨とはなれた作風での話になってしまったな。
そう思って改まってコレを書く前に『文学的〜』を試しに読んでみたのだが3章でやめてしまった。
筋の是が非、ね。この2人では作風が違いすぎないか。結局私はコアがあればいいと思ってしまうが、正直小説はおもしろいにこした事はない。
代弁された事の共感は読者を救う事もあるが、それにより書くことで作者がを救われている部分も大きいだろうしね。ならば自己満足にならないように気を付けねばなるまい。
まぁ私なんかが言わずとも、表現者には色々と思う所があるのだろうがね。
そろそろ芥川好きの人を指した通名を考えてもいいかもしれない。
ダザイスト、ミシマニア、ハルラーとくればアクタニアとか?
なんか三流ファンタジーの舞台になっている架空の国名みたいだな。
芥川好きの人、でいいだろう。
もしくは河童通とか?
我ながら恐ろしくセンスがないな。いつか芥川好きの人にあったら聞いてみよう。 -
ある程度、芥川龍之介を読んできた人にとっては、その一部の良い作品でしかないと思うが、芥川をはじめ、文豪の作品に慣れてない人がいきなり読むにはかなりパワーが必要。
こういうのは無理して読まずに、読みやすい話だけ読んで一度置いてもいいかもしれない。
時間をかけてゆっくり味わいたい作品。 -
大石内蔵助や滝沢馬琴、松尾芭蕉など歴史上の有名な人物が出てきます。羅生門から始まり地獄変、蜘蛛の糸、奉教人の死と読み進めてきましたが、この江戸期もの、明治開化期ものは文章のイメージが変わった気がしました。静寂な透き通った水底のような感じ?諦めにも似た達観した感じ?うまく言えないけど、今までとは違うように思えました。
『舞踏会』『秋』が印象に残りました。あと『年末の一日』を読んでいると大正時代の東京の街並みを芥川とともに歩いているような思いになってしまいました。なんでだろう、孤独感に覆われたような冷たい空気に染まってしまう気がして胸が苦しくなりました。 -
自分が今まで抱いていた芥川作品のイメージとはちょっと変わったものが収録されている短編集でした。
表題作の『戯作三昧』がじわじわ来ます。美術の課題の現実逃避で読んだらぐりぐり刺激されました、謎の意欲が。
『舞踏会』と『秋』がすごく好きです。
『お富の貞操』とか結構な内容なのに、芥川先生の文章って登場人物より一歩引いててすっごい冷静だから内容がすっと入って来て、やっぱり芥川先生すごいな…。うまい。と思いました。
また忘れた頃に読み返したいです。 -
「或る日の大石内蔵之介」「戯作三昧」などの江戸期ものと、「舞踏会」「開花の殺人」などの明治開花期もの 「秋」「一塊の土」などの自然主義的な小説。どれも主人公の心理の変化を描写しており、難読な言葉も出てきますが、巻末の説明を読みながら読むと意外にスッと入ってきて読めました。短編ということも良かったです。個人的には「或る日の大石内蔵之介」「お富の貞操」「一塊の土」が読み終わった後、いろいろ考えさせられた。明治大正時代に描かれた作品ですが、令和の今でも人間の感情や愛憎は変わらないなと思う。2023年9月21日読了。
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★3.5 登場人物の心の動きの描かれ方が素晴らしいな。
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『戯作三昧』を読んだ。
芸術至上主義に生きた馬琴と、「芸術は表現に始まり表現に終わる」と語った漱石。
芸術とは、自己を表現することである?表現の技法のことと考えるのは浅薄なのか?