愛の渇き (新潮文庫)

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  • Amazon.co.jp ・本 (272ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784101050034

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  • 2020/12/01読了

    「単純な體に宿った單純な魂ほど、この世で美しいものはないとさへ思はれる。しかし私の心とさういる心との深い隔たりの前に立つては何が出來よう。銅貨の裏側が表側に達しようとする努力ほど辛い苦しいのがどこにあらう。一番簡単な方法は穴のない銅貨に穴をあけてしまふことだ。それは自殺だ。
    私はしばしば身を賭けるやうな決心で近づいてゆく。相手は逃げてしまふ。相手はどこまでも無限のかなたへ逃げてしまふ。さうしてまた、私は一人、退屈の中にとりのこされる。……
    私の手の指のまめ、それは愚かな茶番だ。
    ……しかし物事をまじめに考へすぎないことが悦子の信條であつた。素足で歩いては足が傷ついてしまふ。歩くためには靴が要るやうに、生きてゆくためには何か出來合ひの「思ひ込み」が要った。悦子は頁を無意味にめくりながら、心にひとりごとした。
    『それで私は幸福だ。私は幸福だ。誰もそれを否定できはしない。第一、證據がない』
    彼女は仄暗い頁を先のはうへめくった。白い頁がまだ續いてゐる。まだ續く。そしてやがてこの倖せな日記の一年がをはる。……」

    「それはともかく、熱海ホテルのあの朝、二人は全くの二人であった。良輔の熱病が、再び二人を二人きりの孤獨に置いた。悦子は思ひがけなく彼女を再び訪れたこの無慙な幸福を、何と残る隈なく、何と貪婪に、何といふあさましさで享樂し盡したことであらう。彼女の看護には、何かしら第三者の目をそむけさせるやうなものがあった。」

    「謙輔夫婦には、退屈してみる人間に特有の、病氣のやうな親切心があるのだった。人の噂と押しつけがましい親切と、……田舎者のこの二つの特性が、しらぬ間に甚だ高級な擬態を裝つて謙輔夫婦をも犯していた。つまり批評と助言といふ高級な擬態で。」

    「多少は彌吉の氣心を吞込んでみる悦子にしても、彼の今日一日を充たした希望が、單なる榮達の機會への希望だと思ひはしない。しかしわれわれはむしろ、自分が待ちのぞんでいたものに裏切られるよりも、力めて輕んじてたものに裏切られることで、より深く傷つくものだ。それは背中から刺された匕首だ。」

    「『容易なはうがいいにきまつてゐる』と彼女は考へた。 『なぜかといへば、生きることが容易な人は、その容易なことを生きる上の言譯になどしないからだ。それといふのに、困難のはうはすぐ生きる上の言譯にされてしまふ。生きることが難しいなどといふことは何も自慢になどなりはしないのだ。わたしたちが生の內にあらゆる困難を見出す能力は、ある意味ではわたしたちの生を人並に容易にするために役立つてゐる能力なのだ。なぜといって、この能力がなかったら、わたしたちにとつての生は、困難でち容易でもないつるつるした足がかりのない真空の球になってしまふ。この能力は生がさう見られることを遮げる能力であり、生が決してそんな風に見えては來ない容易な人種の、あづかり知らない能力であるとはいへ、それは何ら格別の能力ではなく、ただの日常必需品にすぎないのだ。人生の秤をごまかして、必要以上に重く見せた人は、地獄で罰を受ける。そんなごまかしをしなくつても、生は衣服のやうに意識されない重みであつて、外套を着て肩が凝るのは病人なのだ。私が人より重い衣裳を身にまとはなければならないのは、たまたま私の精神が、雪國に生れてそこに住んでるるからのことにすぎぬ。私にとって生きることの困難は、私を護ってくれる鎧にすぎないのだ』」

    「悦子は失笑した。耳あとでたえず呟いてゐる、むしろ失禁してゐるやうなこの男の思考力。さうだ、これはまあいはば「脳髄の失禁」だ。なんといふ悲しげな失禁だらう。この男の思想は、丁度この男のお尻ぐらゐ滑稽だ。しかしゅつと根本的な滑稽さは、彼のこのやうな獨白のテンポが、目の前の叫喚の、動揺の、匂ひの、躍動の、生命力のテンポとまるで合はないことだ。」

    「悦子の指はそれに觸れたいとひたすらにねがった。どういふ種類の欲望かはわからない。比喩的にいふと、彼女はあの背中を深い底知れない海のやうに思ひ、そこへ身を投げたいとねがったのである。それは投身者の欲望に近いるのであつたが、投身者の翹望するのは必ずしも死ではない。投身のあとに來るものが、今までと別なもの、兎にも角にも別の世界のものであればよいのである。」

    「『まだ苦しみはじめてゐない。どうしたのだらう。まだ本當に苦しみはじめてゐない。苦しみは私の心臓を氷らせ、手をわななかせ、足を縛りつけてしまふ筈だ。……かうして料理を作ってるる、この私は何だらう。何故こんなことをしてゐるのだ。……冷靜な判斷、正鵠を射た判斷、情理兼ねそなへた判斷、そんなものが、まだまだ、いやずっと先まで私にお出來さうな氣がする。……美代の妊娠で私の苦しみは完成された筈だといふのに。まだ何か足りないのかしら。その完成には4つと怖ろしいるのが附け加はらねばならないのかしら。……私はひとまづ私の冷静な判断に從はう。三郎を見るのは、ちはや私には苦しみであつて喜びではない。しかし三郎を見ないでは、私は生きられない。三郎はここを去つてはならぬ。そのためには結婚させなければならない。私と?何といふ錯亂だ。美代と、あの田舎娘と、あの腐れトマトと、あの小便くさい馬鹿娘と、だ!さうして私の苦しみが完成される。私の苦しみは完全なるのになる。それこそ餘組のないものになる。……さうすれば多分私はほつとするだらう。つかのまの、いつはりの安堵が來るだらう。それに縋らう。そのいつはりを信じよう。……』」

    「悦子は自分自身で作つた幻影にあざむかれ、彼女の強制によつて三郎が心ならず、美代と結婚するといふ倖せな事態に酔った。この酪餅には、戀の傷手を負った女の自暴酒に似たのがなかつたか?それは酔ひ心地より自失を求め、夢心地より盲目を求め、故意に愚かな判断を求めるために飲まれた酒ではなかつたか?この強引な酊は、自ら傷つくことを避けて無意識に仕組まれた筋書に據るものではなかつたか?」

    「『いいんですか?船は沈没直前ですよ。まだあなたは助けを呼ばないんですか?あなたは精神の船を酷使しすぎたので、人が最後に求める據り所をみづから喪つて、この期に及んで、肉體の力だけで海を泳がなければならなくなるんですよ。そのときあなたの前にあるのは死だけですよ。それでいいんですか?』」

    「『私は決して助けを呼びはしない』と彼女は考へる。しゃにむに自分を幸福だと考へる根據を築くために、悦子は今では兇暴な論理を必要とした。 『何台かち呑み込んでしまはねば……。何からしゃにむに目をつぶって是認してしまはねば……。この苦痛をおいしさうに喰べてしまはねば……。砂金採りは砂金ばかり掬ひ上げることはできはしないし、また、しるしないのだわ。盲滅法に河底の砂を掬ひ上げる。その砂のなかに砂金がないからしれないし、また、あるからしれないのだわ。その在不在を前以て選ぶ權限は誰にもありはしないのだわ。ただ確實なことは、砂金採りにゆかない人は、依然として貧しさの不幸に止まつてゐるといふことだけだわ』更に悦子は考へた。 『さうして更に確實な幸福は、海に注ぐ大河の水をのこらず呑み込んでしまふことだ。私は今までそれをやって來た。今後やるだらう。私の胃の腑はきっとそれに耐へるだらう』かうして苦痛の限りなさは、人をして、苦痛に耐へる肉體の不滅を信じさせるにいたる。それが愚かなことであらうか?」

    「『天理でもこんな乞食を見たつけが、傷口を誇示して憐れみを乞ふ乞食といふのは、本當におそろしい。奥様には何だか、莫迦に氣位の高い乞食と謂つたところがあるなあ』」

    「その實數十秒にすぎなからうに、果てしらなく永く思はれた沈黙のあとに、彌吉がかう言った。「何故殺した」「あなたが殺さなかったから」「儂は殺さうとは思はなかった」悦子は狂ほしい目で彌吉を見返した。「嘘です。あなたは殺さうとなすったんです。わたくしは今それを待ったのです。あなたが三郎を殺して下さるほかに、わたくしの救はれる道はなかったんです。それだのに、あなたは躊躇なすった。慄へていらした。意氣地もなく慄へていらした。あの場合、あなたに代って、わたくしが殺すほかはなかったんです」「お前はまあ、儂に罪を着せようとする」「誰があなたに!あたくし、明日の朝早く警察へまるります。一人でまるりますわ」「早まることはない。考へられる處置はいくらある。それにしても、何だって、此奴を殺さなくてはならなかったんだ」「あたくしを苦しめたからですわ」「しかしこいつに罪はない」「罪がない!そんなことはございません。かうなつたのは、あたくしを苦しめた當然の報いですの。誰もあたくしを苦しめてはいけませんの。誰もあたくしを苦しめることなぞできませんの。」

  • 読後、これは誰の『愛の渇き』かと自問した。言わずもがな悦子の愛の渇きである。良人を亡くした悦子は病棟に帰還するように米殿の家に訪れる。彼女が老いた弥吉の寵愛を受け、無感動な日々を過ごす。しかし三郎の登場が全てを変えた。悦子は三郎を愛する。しかし美代もまた同じであり救いのない物語として登場人物の影を落としている。悦子は理性を、三郎は本能を表す。どちらも極端で我々にその恐ろしさを教えてくれる。一部を拡大すると狂気が目立って、人間の取りうる業の深さが表現され、救いのなさ、精神生活と肉体生活の矛盾が知らしめられるのだ。私たちは私たちのことをよく知らない。だから仮想の経験として小説を読むことを欲するのだと思った。

  • 彼女が愛だと信じて疑わないものが実は愛ではないことに、彼女以外のみんなが気づいていた……。三島由紀夫の書く、女の業に打ちのめされます。

  • 顔はいいけど性格の歪んだブルジョアのオバサンが
    小間使いの美少年に恋い焦がれているのだが
    それが報われないと知ったのち、逆上して殺してしまうという話

    浮気者だった亭主を、早くに腸チフスで亡くしたあと
    舅の愛人として囲われている彼女は
    なんとかして自らの苦しみに折り合いをつけるべく
    様々な欺瞞的観念を捻り出しては、周囲を見下ろしているのだが
    それに望みをかなえる力があるわけでなし
    精神的に行き詰まったあげく、諦めをつけようとして
    まわりくどい策を張り巡らせるものの
    結局は、舅を巻き込んだ事故のような感じで
    美少年を殺すのだ

    客観的に見れば、多少は同情の余地がある話で
    いわゆる「ツンデレ」めいたところのある主人公を
    もう少し魅力的に書くこともできたはずだと思う
    しかし彼女の内面描写は
    弱みを見せまいとする自意識に貫かれており
    それが彼女の恋を阻害するのみならず
    読者の共感までをも拒絶するようで
    いかにも、三島作らしい読みづらさになっている
    爺さんにしがみついてまで生に執着する我が身の惨めさを
    笑うぐらいの余裕はあってもいいと思うんだけどね
    人殺しにそんな高級な自意識あるわけないだろ
    と言われりゃそれまでか

  • 【神なき人間の逆説的な幸福の探求】とは、「嫉妬や復讐を生き甲斐にする」ということなんでしょうか。

    三郎が美代でなくてもよかったように、悦子も「夫への嫉妬に殉ずる殉死」さえできれば、相手は誰でもよかったのだと思います。満たされない愛が故に、嫉妬して、自分を追い詰め(舅と肉体関係を結び)、夫への愛を確認していたとも思えます。葡萄畑で叫んだ名が良輔であったと考えると、彼女の行き場のない苦しみが伝わってきます。

    読解力が足りないのか、何度読み返しても違った捉え方になり、著者が意図したその答えが何なのかが分かりません。



  • 戦前から戦中の大阪は豊中。
    都会でもなく田舎でもなく、現代の比ではないが。
    耽美派の三島氏。情景描写は流石に綺麗だが。情景を削れば、ただの昼ドラにしか思えないな。
    亡夫の父、つまり義父の後家に入り、手籠めにされ、最早情婦な主人公の悦子。その一家には義兄弟夫婦も同居し、奉公人の下男、そして、女中が暮らす。
    義父の情婦になりながら、園丁の下男に想いを寄せる。
    また、思いの寄せ方の鬱屈したこと。色情狂いとも違い、嫉妬と狂気と自傷...愛するが故に最期は鍬で頭をカチ割り、殺めてしまう。
    昭和25年の作品。生きるとは。そんな哲学を求めた時代なんでしょうな。インテリ派とかいう。
    情報化社会の現代では、全く相容れない一冊でした。

  • 壮絶な嫉妬の物語。誰にも愛されず、どうやって愛すれば良いのかも知らない悦子。枯渇した愛の群像が全編に渡り重苦しく、そして三島作品らしく重厚に描かれている。

  • 読もう読もうと思って三年ぶりの三島…

  • 主人公は未亡人の杉本悦子。夫が急逝した後、舅の弥吉と暮らし肉体関係に陥る。一方、弥吉の家にいる若い園丁、三郎に恋心を抱くという内容。ラストは衝撃的。
    三郎が愛とか恋とか全く知らず、肉欲しかないので、主人公、悦子との関係がちぐはぐになり興味深い。

  • 2016/07/10 読了

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著者プロフィール

本名平岡公威。東京四谷生まれ。学習院中等科在学中、〈三島由紀夫〉のペンネームで「花ざかりの森」を書き、早熟の才をうたわれる。東大法科を経て大蔵省に入るが、まもなく退職。『仮面の告白』によって文壇の地位を確立。以後、『愛の渇き』『金閣寺』『潮騒』『憂国』『豊饒の海』など、次々話題作を発表、たえずジャーナリズムの渦中にあった。ちくま文庫に『三島由紀夫レター教室』『命売ります』『肉体の学校』『反貞女大学』『恋の都』『私の遍歴時代』『文化防衛論』『三島由紀夫の美学講座』などがある。

「1998年 『命売ります』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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