ふらんす物語 (新潮文庫)

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  • Amazon.co.jp ・本 (336ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784101069012

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  • (1967.08.05読了)(1967.07.27購入)
    (「BOOK」データベースより)
    明治四〇年七月、二七歳の荷風は四年間滞在したアメリカから憧れの地フランスに渡った。彼が生涯愛したフランスでの恋、夢、そして近代日本への絶望―屈指の青春文学の「風俗を壊乱するもの」として発禁となった初版本(明治四二年刊)を再現。

  • ニューヨークからフランスへ渡り、数年後日本に帰国した荷風の手になるフランス滞在記。
    今も昔もお国柄というのは変わらないのだなぁ、と感嘆しきり。
    時代も日露戦争後で日本の変わり目であり(日本の変わり目は明治維新、日露戦争、太平洋戦争敗戦の三つであろう)、高度成長が破綻した今の時代とも重ね合わせて読むことができる。

  • この作品の構成は永井荷風自身の日記、エッセイ、物語から成り立っている。順を追うと、アメリカからフランスのパリへと向かう船上から始まり、滞在先であるフランスのリヨンでの生活を綴ったエッセイ、リヨンを舞台とした物語、そして無念の帰国とその帰路となっている。この作品から感じるのは永井荷風の並々ならぬフランスへの愛情である。風景、街、人々、作家と作品。フランスにまつわるどれもが愛しいという思いが伝わってくる。そしてそのイメージを自らも体現しようとするかのように、日記でも物語でも色恋沙汰に溺れていく様を書いている。どこまでが事実で、どこまでが脚色なのかは分からない。しかし、そこにはフランスの作家たちが歩んだ人生への憧れと意思を感じる。恋に恋する女学生のような純粋さと盲信。そして帰国という失恋の痛みまでついてくる。しかしこの作品が単なる恋の日記ではないのが分かるのが、フランス、前に滞在していたアメリカ、帰国の際に寄った国々、日本への考察である。日本人という第三者の立場からアメリカ、フランスなどを考察している。永井荷風が生きた明治時代においてこのような多国間に渡る考察は珍しいのではないか。当時の空気を知るのにも役立つのではないかと思う。

  • フランス大好きだな。
    文章の飾り立てが綺麗。一方で飾り立てすぎて読みづらい。
    時代の為か、フランス以外、特にシンガポールの箇所のけちょんけちょん具合がひどい。
    フランスにいるときの話は、その素晴らしさをひたすら讃えているだけなのであまり面白くはなかったが、帰り道の特にポートセットあたりは面白かった。

  • 異国情緒あふれるお洒落なフランスではなく、
    またそこを異文化交流よろしく肩に風を切って闊歩するハイカラ日本人でもなく、

    フランスに愛着を感じ、
    また日本に自然な違和感を覚え、
    どこまでも等身大に孤独と郷愁とに身をやつし
    そうしてフランスに暮らした人の記録。

    急速に近代化を推し進める中で逆に伝統的価値を見失いつつある明治日本への違和感、そんな日本の日本人であることへの過剰なまでの忌避感との対比の中で、エキゾチックな興奮でなく、むしろ不思議な安寧の中に見出すフランスの諸相が、まるで日本の下町風情のような匂いを放ちながら迫ってくる。

    海の向こうの異郷に非ず、失われた全ての人のふるさとの物語。

  • とにかくすてきだった。
    きれいな情景描写がたまらないです。
    フランスののどかでけだるい雰囲気のなかだと
    風俗も、パリの女性との恋愛も、
    なんか芸術のようです


    秋のちまた
    再会
    巴里のわかれ

    この3つの章が特にすてきだった。

    最後のローザへの恋文が熱烈。

  • 時間はかかったものの、飽きることなく読了。まさに美に耽る一冊。この後『唐詩選』を購入。荷風の風景描写の基礎はやっぱり漢詩かな、と思ったので。

  • 仏蘭西に住んで読むとより一層その描写の美しさが実際のイメージに近づき、うっとりと読む。木陰の描写など素晴らしい。

  • 20世紀初頭、パリは巴里であり、パリーだった。

  • あらゆる幻想と夢の結晶
    文化と芸術の極致
    非常に鮮麗された美と光にあふれている華やかな都
    当てはめ続ければきりがなく様々な言葉が合致する。
    それがパリという存在である。
    最先端でありながら、しかしあらゆる歴史的なものもその中に秘められ蓄積され、『共存』している。
    正直パリという存在を表現するのは難しい。
    溺れればあざ笑い、離れようとすれば後ろ髪を引き、振り向くと圧倒される。
    気位の高い美人のような存在である。
    だからやっぱり私の手になんて負えるわけがない。
    しかし本書は私のパリに対するあこがれと夢を非常に的確な言葉と表現によっておこなってくれている。




    永井荷風を読んだのは初めてだ。
    正直自分がこの人の本を読む日が来るなんて想像もしていなかった。
    いや、有名な作家であるのなら誰でも一冊ぐらいは読んでみようと思っているが、このタイミングとは予想外。
    永井荷風と言えば国語便覧でも若いページに名を連ねる、イメージとても古い人。
    それが私のなかのいわば”固定観念”である。
    きっと美文調でやっかいなほど堅く、難しい表記をしているのだろうと踏んでいた。
    だから、もう少し知識と体力をつけてから追々するっと、と思っていたのだが、全部すっ飛ばしてしまった。
    理由は単純だ。
    パリである。




    先日大枚をはたいてついに長年の夢を実現させた。
    巴里を訪問したのである。
    その準備のようなものとして「文学に現れたパリ」という本を読んだ。
    国内外を問わない文人達が記述したパリについての描写の抜粋や解説がされている本なのだが、その中で特に私の心にとまったのが荷風の記述だった。



    『ああ、巴里よ、自分は如何なる感に打たれたであろう。
    有名なコンコルドの広場から並木の大通シャンゼリゼー、凱旋門、ブーロンユの森は云うに及ばず、リボン街の賑い、イタリア広小路の雑踏から、さてはセインの河岸通り、又は名も知れぬ細い路地の様に至るまで、自分は見る処到る処に、つくづくこれまで読んだ仏蘭西写実派の小説とパルナッス派の詩篇とが、如何に忠実に如何に精細にこの大都の生活を写しているか、と云う事を感じ入るのであった。』



    まさしく私が思っていることとぴったりと合わさった。
    なんて事はない単純な言葉だ。
    しかし、それだけに共感が生まれる。
    おまけに、これを始めに荷風は巴里のひとつひとつの美しさや感動を教養のある文体で丁寧に、本当に丁寧に、己の中にある巴里に対する愛のすべてを注ぎ込んで描いてくれる。
    なんと言っても耽美派の代表格だ。
    耽美派とはなんぞやと言うことを考えるのはこの際いいだろう。
    正直私もおぼろげだが、ただ言えることは巴里にとにもかくにも”美”を求めている私にはすべてが好条件だったと言うことだ。
    すぐさま読みたくなって食いついてしまった。
    フランスを舞台にしたものがたりを読むよりも、日本を代表する文人の見聞録なんていいではないか。



    『旅人の空想と現実とは常に相違すると云うけれど、現実に見た仏蘭西は見ざる時の仏蘭西よりも更に美しく更に優しかった。
    嗚呼わが仏蘭西。
    自分はどうかして仏蘭西の地を踏みたいばかりにこれまで生きていたのである。』



    しかしながら、私は旅人の空想と現実のギャップを現実に突きつけられた。
    荷風には訪れなかったそれが巴里を訪れた私には容赦なく襲いかかってきた。
    巴里の「美」とはなんぞや、
    どこへ行った?
    そう考え、自分がいったい何を求めていたかと云うことを考えた。
    けして、すべての人にこの幻滅が訪れるわけではない。
    今でも巴里は芸術の都であるし、町並みも美しく、美男美女も多い。
    しかし、違うのだ。
    おそらく私の想像する巴里の美というものは過去の文化である。
    それも組み込まれた物ではすまされないような「過去」の存在なのだろう。
    確かに私が抱いた巴里の幻想のほとんどが古典を読んで得た古き時代の姿である。
    だから荷風のこの描写に食いついてしまった。
    しかし、巴里とは生きた存在なのだ。
    荷風の時代の巴里に行けたのならば私は彼同様に虜になっただろう。



    と、話を本のなかに戻す。
    細か場所や建造物の意義や歴史の紹介などが事細かに、何をどうしたみたいなことは綴られていないが、実際の日記調に、時には空想の物語、人伝いの経験談など様々な側面でフランスの物語が綴られている。
    私は「雲」が思いの外、気に入った。
    鴎外の「舞姫」の二番煎じでは、と言われればそれまでだが鴎外の”物語としての舞台の外国”というニュアンスとは違い、荷風の「雲」では巴里の愛が故にそれぞれの場面や情景が非常に明確で、言うなれば無駄に美しい。
    そのわりに主人公は苦悩しているし、うんざりとしている。
    しかし、それは巴里にではない、己にだ。
    これは荷風の己の立場に対する閉塞感が生んだ物語なのだろう。
    幻想の一端であり、しかしかなっては困る破滅的な空想遊びだったのだろうな。
    溺れてしまいたい、しまいたいでも現実を知っていて総てを客観的に見つめている。
    最後の章が私はなかなか好きだった。
    すっきりとから明るく、でもまるで死んでいるよう。
    いいね、
    全体を通しても華美な文体が好きな私にはかなりしっくりときた。
    何にせよ”美”を感じることに優れている荷風という人を通した、感動や喜びをこちらも体験できるので価値は高いと私は思う。
    美しいと言うことは見いだされるのである。
    いや、総ての感覚は人を通してしか成立できない。
    だから自然のものから錬成するにはフィルターとなる”感性”が必要だ。
    しかしそれに過敏であると言うことは総ての人に恵まれているものではけしてない。
    だが、芸術は人を通して錬成されたものを”共有”しやすいように加工してくれる。
    そこでもまた”受容体”があるかどうか、という資質はあるのだがまぁ、その話は置いてしまおう。
    いや、今回に関しては格調高い美文、とまでの賞賛を捧げることはできないが、愛を注いで書かれた文には私の場合”過敏”に感じることができる。
    あまりにも正直に感動を投げるものだから、だからこそ、改めてそんなことを考えてしまった。
    とはいえ私は空想しすぎて、逆に旅においてはギャップに飲み込まれてしまったけども。
    しかし、感動というものは、伝わるものである。
    巴里に行く機会に恵まれた人には、是非とも薦めたいと思う一冊。



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著者プロフィール

東京生れ。高商付属外国語学校清語科中退。広津柳浪・福地源一郎に弟子入りし、ゾラに心酔して『地獄の花』などを著す。1903年より08年まで外遊。帰国して『あめりか物語』『ふらんす物語』(発禁)を発表し、文名を高める。1910年、慶應義塾文学科教授となり「三田文学」を創刊。その一方、花柳界に通いつめ、『腕くらべ』『つゆのあとさき』『濹東綺譚』などを著す。1952年、文化勲章受章。1917年から没年までの日記『断腸亭日乗』がある。

「2020年 『美しい日本語 荷風 Ⅲ 心の自由をまもる言葉』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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