る。
1902年、南方熊楠が住居を定めた田辺は、荒畑寒村、管野須賀子などの社会主義者が記者となり活躍した牟婁新報が日露戦争を激しく批判した記事を載せるなど全国から注目を浴びていて、東京以上に自由で進歩的な町でもあった。
熊楠は日記に『当田辺町は、至って人気宜しく物価安く静かにあわ、風景気候はよし、そのまま当町に住み…』と町を褒めている。
さて、作者の神坂次郎は1927年、和歌山県生まれ、現在も同地に住む。『おかしな侍たち』等の時代小説を多数出版。「元禄御畳奉行の日記」では特別な才能もない平凡な下級武士の日記をもとに、元禄の武士生活を軽妙に再現して見せてくれベストセラーーになる。
今回の作品は、南方熊楠が『故(ことさら)に日記などに書かれしことは、用少き閑事のみなり。大は忘れて小を記すというものなり。されば巨細(こさいさい)に検されんには、吾人の口上、一として正伝あるものなく、みな多少の法螺ならん』などと嘯(うそぶ)く彼の膨大な日記を、鬱陶しいほどの時間と根気をかけて、読みほぐして書かれた力作である。
物語は、南方熊楠が慶応3年(1867)、和歌山に生まれる所から始まる。幼児より天才的記憶力を示した熊楠は、友人の家にある「和漢三才図絵」 (江戸中期の百科全書。105巻)を丸暗記して筆写したという。
東京大学予備門に入学するが、満遍なく点数を取るという秀才型の教育方針に反発、考古学の発掘や植物の採集に熱中し登校拒否する。
試験の成績が悪く落第するや即退学し、渡米してミシガン州の大学に入学するも、学ぶべきものなしとここも退学。キューバに渡り、白人の領土内で「アジア人の手によって発見ざれた生物学上の世界最初の発見」地衣新種「グァレクタ・クバーナ」を発見。サーカスの曲馬団助手として南米を放浪後、ロンドン大英博物館嘱託研究員となる。
中国革命の孫文と知り合い意気投合したのもこのロンドン時代である。お互いに貧困の限りをつくした生活だが夢は大きかった。さらに破天荒の生き方を送るのだが…。
田辺市の海向こうにある白浜に、南方熊楠記念館が建っている。少年時代写本したノート、菌類標本、孫文から贈られた帽子等が展示されていて、庭園は熱帯の植物が植えられ、自然のままの蓼蒼とした雰囲気である。
屋上からは、彼が命がけで守った自然の宝庫神島や、日本の自然保護のシンボル的存在である天神崎が見える。主義思想、学歴、貧富ではなく人柄で人を選び、権威を嫌い、金より自然を選んだ彼の生きざまは現在の人の共感をよんでいる。