散るぞ悲しき―硫黄島総指揮官・栗林忠道 (新潮文庫)

著者 :
  • 新潮社
4.33
  • (162)
  • (101)
  • (47)
  • (2)
  • (2)
本棚登録 : 1079
感想 : 131
本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています
  • Amazon.co.jp ・本 (302ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784101352817

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
絞り込み
  • 出血持久戦。目的は勝つ事ではなく、1日でも長く島を持ちこたえること。全将兵に対し潔く戦ってぱっと死ぬるのではなく、最も苦しい生を生きよと命じ続ける強靭な「精神力」。目的を明確にして各自の行動まで落とし込む「具体化」こそが重要だと再認識した。

  • 日本でも過酷な戦場の一つである硫黄島。その戦場をまとめ上げ、最後まで抵抗を続けた指揮官の物語です。涙なしでは読めません。感動間違いなしです。オススメ!

  •  硫黄島の戦いに興味があり読んだ。学生時代に硫黄島での遺骨収集に参加しないかと声をかけてもらったことがあったが、当時はまさに就職活動の時期であり辞退申し上げた。以前からそれを悔いる思いがあったが、本書を読んでその思いがより大きくなった。
     陸軍中将栗林忠道は、硫黄島の総指揮官として二万余の兵を率い、かつてない出血持久戦を展開した。周到で合理的な戦いぶりで上陸してきた米軍に大きな損害を与え、最後はゲリラ戦に転じ、「五日で落ちる」と言われた硫黄島を三十六日間にわたって持ちこたえた。
     硫黄島は、はじめから絶望的な戦場だった。彼我の戦力の差を見れば、万に一つも勝ち目はない。日本軍の玉砕は自明のことであり、少しでも長く持ちこたえて米軍の本土侵攻を遅らせることが、たった一つの使命だった。栗林をはじめ硫黄島の将兵たちは、自分たちが持ちこたえることで、日本本土の国民を空襲の惨禍から守ることができると考えて戦った。さらに、栗林は敵により多くの出血を強要することで、終戦交渉を有利に進められるようにしたかったという。
     このために栗林がとった戦い方からは、私たちは今日に通じる多くの教訓を得ることができる。
    ①総指揮官が自ら、自分の足と眼で現場の実態を見て作戦を立てた
     栗林は硫黄島へ着任すると、連日島の隅々まで歩いて見て回り、地形や地質をつぶさに観察した。そして、十二日後には、大本営の方針に背く形で伝統的な水際作戦を放棄し、敵を上陸させてから接近戦で打撃を与える後退配備の陣地構築を行う計画を立てた。栗林は、ものごとを実に細かく「見る」人で、定石や先例を鵜呑みにせず、現場に立って自分の目で確かめるという態度をつらぬいた。そして、実行するに大胆だった。
     上に立つものは細部にこだわらず大局を見るべきだという考え方もある。しかし、大局ばかりを語って現実を見なかった当時の戦争指導者の楽観的な目論見はことごとく外れた。現場の状況の細部を無視して決められた方針は戦場の将兵を苦しめ、ついには敗北を招いたのだった。
    ②目的と任務を明確にし、その遂行のために、伝統や慣行にとらわれないダイナミックな発想と断固たる決断で臨んだ
     硫黄島守備隊の目的と任務は米軍を撃退して勝つことではなく、持久戦で粘れるだけ粘り、最後は玉砕で打撃を与え、本土侵攻を少しでも足踏みさせることだった。このために、栗林は伝統だった水際作戦を捨て、すべての陣地を地下に構築する決断をした。このことが日本軍の善戦につながった。
    ③空疎な理想や美学を排除し、現実を見据えた合理主義で作戦を立てた
     「バンザイ突撃」は潔く散るという美学ではあっても、敵に少しでも多くの損害を与え、進撃を遅らせるという目的の達成はできない。栗林は「バンザイ突撃」を禁じ、地下壕にこもってゲリラ戦を展開するという、日本軍に前例のない戦闘の仕方を命じた。もっとも、栗林が一兵たりとも無駄に死なせてはならないと考えたのは、ヒューマニズムからではなく、いかに兵士の命を有効に使い切るかという冷徹な計算からだった。
    ④二万の将兵の一人ひとりを大切にし、全部下と一体となって戦った
     特に硫黄島のような生活条件が劣悪な地では、上官との接触が少ないと兵士の士気は衰えてしまう。このため、栗林は毎日隅々まで歩いて陣地構築を視察し、一兵卒にも気さくに声をかけて励ました。司令部の将校にも、兵士の士気を高めるために陣地構築の現場に出ることを命じた。食事は自分を含めた将校と兵士で差をつけることを禁じた。また、雨水以外に水がない島で率先して節水に努め、自ら畑を作った。厳しい地下陣地での戦いだったにもかかわらず、発狂者が出なかったのは、全員が総指揮官を信頼し、一体感を持っていたためだ。
    ⑤島の住民をいち早く本土に避難させた
     栗林は、軍隊は国民を守るために存在しているという意識を強く持っていた。このため、着任早々に島民を本土に送還し、沖縄で起こったような悲劇を未然に防いだ。

     栗林が最後の出撃に際して述べた訓辞は、次のようなものだったという。
    「予が諸君よりも先に、戦陣に散ることがあっても、諸君の今日まで捧げた偉功は決して消えるものではない。いま日本は戦に敗れたりといえども、日本国民が諸君の忠君愛国の精神に燃え、諸君の勲功をたたえ、諸君の霊に対し涙して黙禱を捧げる日が、いつか来るであろう。安んじて諸君は国に殉ずべし」
     そして、「予は常に諸子の先頭に在り」と宣言したとおり、栗林は最後の総攻撃で自ら突撃した。
     玉砕を目前にした昭和二十年三月十六日に栗林が発した訣別電報は心を揺さぶる。これは、武器と補給が途絶えたなか、圧倒的に優勢な敵に対する、自分の部下たちの凄まじくも哀切な戦いぶり、その苦しみと悔しさを最後に伝えようとしたものだ。また、指揮官としての断腸の思いがひしひしと伝わってくる。著者はこれを、硫黄島で亡くなった大勢の将兵への鎮魂の賦だったという。しかし、この訣別電報は国民の士気に影響するとして、発表時に改変されることとなった。改変前の訣別電報は、以下のとおり。

     戦局、最後の関頭に直面せり。敵来攻以来、麾下将兵の敢闘は真に鬼神を哭しむるものあり。特に想像を越えたる物量的優勢を以てする陸海空よりの攻撃に対し、宛然徒手空拳を以て克く健闘を続けたるは、小職自ら聊か悦びとする所なり。
     然れども飽くなき敵の猛攻に相次で斃れ、為に御期待に反し此の要地を敵手に委ぬる外なきに至りしは、小職の誠に恐懼に堪へざる所にして幾重にも御詫申上ぐ。
    今や弾丸尽き水涸れ、全員反撃し最後の敢闘を行はんとするに方り、熟々皇恩を思ひ粉骨砕身も亦悔いず。
     特に本島を奪還せざる限り、皇土永遠に安からざるに思ひ至り、縦ひ魂魄となるも誓つて皇軍の捲土重来の魁たらんことを期す。
     茲に最後の関頭に立ち、重ねて衷情を披瀝すると共に、只管皇国の必勝と安泰とを祈念しつつ永へに御別れ申上ぐ。
     尚父島、母島等に就ては、同地麾下将兵、如何なる敵の攻撃をも断乎破摧し得るを確信するも、何卒宜しく御願申上ぐ。
     終りに左記駄作、御笑覧に供す。何卒玉斧を乞ふ。
     左記
     国の為重きつとめを果し得で 矢弾尽き果て散るぞ悲しき
     仇討たで野辺には朽ちじ吾は又 七度生れて矛を執らむぞ
     醜草の島に蔓るその時の 皇国の行手一途に思ふ

  • 自分の定められた運命の中で、どのような振る舞いが出来るのか考えさせられる一冊だった。総指揮官でありながら、家族の細かい事まで心を砕き、将兵と同じ生活で気持ちを捉え、周りを導いていく姿に感銘を受けた。空疎な理想ではなく、人々が生きる足元を見て現実的な行動を取ることがいかに大事かと感じた。

    以下抜粋
    ---------
    必敗の地で、2万余の将兵が自分の命令一つで死んでいく島において、よくもこんなに細々としたことまでと思うほどの心配をしている。ただの優しい言葉だけでなく、必ず具体的な対処方法を示している。

    将兵と同じ生活、同じものを食べて将兵の身になりながら、みんなに声掛けして、率先垂範している。

    例え不便で殺伐としていても、民間人には犠牲を出さないよう、軍だけでの戦いに備えている。

    兵は〜すべし、ではなく、我々は〜せん。

    栗林は現実を細かいところまで把握していたからこそ自分の判断に自身を持ち、断固として実行できた。大局ばかりをかたり、現実を見なかった当時の戦争指導者たちの楽観的な目論見はことごとく外れた。

    絶え間ない空襲と艦砲射撃にさらされながら、妻の火薬の袋はりの肩こりを心配する。

    栗林からの41通の手紙の中で、対処高所に立った大きい言葉は一度も出てこない。かわりに出てくるのは、アンカや湯たんぽ、屋根裏にしまってある靴の箱である。

    空疎な理想によってではなく、人間が生きるその足元を見つめる目によって栗林は戦おうとした。

    名誉に逃げず、美学に生きず、最後まで現実の中に踏みとどまって戦う。

    将来の防備に少しでも役立つように正確な数字の把握、敵の戦術、戦法の観察と分析につとめた。

    栗林は死よりも苦しい生を生きよといい、命の最後の一滴まで使い切れと命じてきた。
    勝利も帰還も望めぬ戦場で潔く散ることさえも禁じた。
    その命令を守り抜いた将兵たちの生き様を言葉にする事が総指揮官の最後の努めであった。

  • 私はついぞ戦史や第二次大戦を描いたものが好きになれない。そこには東西を問わず辛い歴史が凝縮され、辛い結末に向かって行くことが分かっているから。この本も最初から涙なくして読めなかったけれど、その悲しさは、栗林中将の夫、父、そして上司としての理想像とも言える姿で一気に身近に感じられる一方で、当時の体制が彼の能力や合理性を生かせなかったにもかかわらず、優秀な一所属員として上から示された目的を最大限に結果に表さなければいけなかった彼の置かれた立場に遣る瀬無い気持ちを抱くからだろう。

  • 日本の敗戦前、硫黄島で何が起きたか。
    正直にいってなにも知らなかった。
    直接的には家族、大きく言えば日本の人々のため、生き残ることを望みえない戦地で戦った指揮官の物語。
    人の営みはいつも理不尽な流れに押し流されていくもの、と強く感じた。
    感謝しつつ、上機嫌に毎日を過ごしていきたい。

    ときに。
    「なぜ戦争をしてはいけないか」という理由に「戦争になると、勇敢な人、責任感の強い人は全員戦地で死んでしまうので、勝っても負けてもその後臆病者、卑怯者の天下になる」という話がある。
    声高に、戦争についての話をしてきた日本の識者たちはこの言葉をどう捉えるだろうか。そんなことも思った。

  • 衝撃的な本であった。
    一人の人間がここまで強くなれるとは。

    精神性が過剰に重視され、もはや希望的観測に支配されていた戦争末期の日本軍において、家族一人一人の生活を思いやる細やかで優しい心と、現実を直視し、前例に捉われずに目的に即した合理的判断をし、任務を全うした栗林中将の生きざまは、壮絶でかつ悲しい。

    自宅の勝手口の隙間風のせいで、子供たちが風邪をひかないかと心配をする一方で、自分は死ぬ前提で、日本人の被害を少しでも小さくするために、前例に囚われずに極めて合理的に判断し、それを実行できるその人物の素晴らしさ。

    人生が、周りの人を幸せにしつつ、自分の人間性を少しでも高める旅だとしたら、自分は栗林中将にどこまで近づけるのだろうか?

  •  映画化された硫黄島での戦い、だがそれは戦争の惨劇だけを伝えていて、この本を読んだことで、それがどれだけ表面的な事であったかがわかった。
     常に平等と計画性と合理性を心掛け、大本営に対しても、惨事を伝えた公的な面と、私的には家族への細やかな心遣いをしたよき夫でもあり父でもある顔。著者の取材力の賜物だと思う。
     繰り返し読まれていっても良い本だと思う。

  • 見捨てられた硫黄島での壮絶な戦いは何のためにあったのか。旧日本帝国軍軍人のイメージとは、かけ離れている指揮官栗林忠道。でも、誰からも愛されて、家族のために命をかけた人。戦争=悪という先入観を植え付けられて育ってきたけど、こういう人なしに今の平和な暮らしはなかったんだと、自覚しなければ…

  • 硫黄島の戦いで総指揮官であった栗林忠道は、わずか2万余の兵を率いてその数倍の戦力を擁する米軍相手に少しでも本土空襲を遅らせて日本国民を守るため硫黄島を死守し玉砕した指揮官として敵味方問わず評価の高い軍人である。

    彼は戦前に軍人としてアメリカ留学の経験もあったのでアメリカの国力がよくわかっておりアメリカとの戦争は避けるべきだと考えていた。そんな男がなぜ玉砕必至の戦いで自らを含め2万余の兵を死に追いやったのか?

    当時戦争の趨勢はすでに決しており、硫黄島が陥落すれば日本本土が本格的空襲にさらされるという、日本にとっては守るべき最後の砦であった。

    今の時代の感覚なら、2万余の人間が死ぬことが自明のそんな戦いは無意味だということになる。しかし、非戦論者ではあるが栗林忠道はその時代の軍人であり、2万余が玉砕してもそれによって米軍の本土空襲を遅らせ、その間に和平の交渉が進み終戦の契機になれば玉砕の戦いにも意義ありと考え自らの運命に従った。

    あの戦争では部下に死を命じながら最後は自分の安否のみに走った指揮官も少なくなかったが、硫黄島の兵たちは常に生死を兵とともにするたぐいまれな栗林忠道の人格とリーダーシップに献身的に応え、米軍硫黄島上陸後も一ヶ月余りも驚異的な抗戦をつづけた。米軍の死傷者も日本軍のそれを上回る3万人近くに達した。太平洋戦史に残る米軍にとっても最大、悲惨な戦いであった。

    硫黄島を死守することで本土空襲を遅らせ、米軍に大きな打撃を与え終戦交渉を促進できればという栗林忠道の意図ははかない夢と終わっただけでなく、まったく彼が想像しなかった終戦の結末となった。

    硫黄島での鬼気迫る抵抗にショックを受けたアメリカは、原子爆弾を広島、長崎に投下したのだ。もちろん、原爆投下のすべての原因が硫黄島での苦戦にあったとは思わないが、結果として原爆が投下されそれが終戦の契機となった。ただひたすら本土防衛、終戦のために玉砕した栗林忠道が、原爆投下の惨状を知ったらどんなに嘆き悲しんだろう。

    現代の感覚で今生きている私が言うのは筋違いかもしれないが、私が硫黄島の戦いから感じたのは、硫黄島に限らず力対力、気力対気力の戦いは勝者であれ敗者であれ結局悲劇を生むということである。あの戦争の大和魂、あるいはヤンキー魂の結果が原爆であった。いかに戦わないかが人間の英知である。

    太平洋戦争に関しても栗林忠道だけでなく山本五十六、米内光政、井上成美など、当時の状況を冷静に把握し非戦論を唱えたリーダーたちは何人もいた。それなのに、そういう人たちが中枢で指揮できずに、愚かなリーダーたちと愚かな官僚たちが実権を握って戦争を指揮した。それが最大の問題である。

    国というのは必ずしも冷静な判断力がある優れた人格者が実権を握り指揮しているわけではない。むしろ、そうでない場合のほうが多いのかもしれない。しかし少なくとも今の民主主義では、優れたリーダーを選ぶのは一般国民である。やはり、問題はそこに戻ってしまう。

    我々は今を生きることしか出来ないし今を生きるべきだと思うが、この今は過去からつながった結果としての今なのである。学校でもっと自国の歴史を教えるべきである。少なくとも明治以降の現代史は今の日本人にとって大事である。それがないと、今の自分の立ち位置がわからず、国も個人も生き方に軸が持てないのではないか?

    歴史には人間の信じられない愚かさとともに、信じられない崇高さも埋まっている。それを知らずして人がまともに生きることは難しい、そう思う。

    「国の為重きつとめを果たし得で 矢弾尽き果て散るぞ悲しき」

    栗林忠道が玉砕直前に軍本部へ打った決別電報の辞世である。
    軍が新聞発表した彼の辞世では「悲しき」が「口惜し」に変えてあった。
    「悲しき」という表現は、国運を賭けた戦争のさなかにあっては許されず国民の士気に影響するということだったらしい。玉砕寸前の辞世、率直にして痛切な本心の発露さえ認めなかった。愚かである。

全131件中 11 - 20件を表示

著者プロフィール

ノンフィクション作家。1961(昭和36)年、熊本市生まれ。北海道大学文学部卒業後、編集者を経て文筆業に。2005年のデビュー作『散るぞ悲しき 硫黄島総指揮官・栗林忠道』で大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。同書は米、英、仏、伊など世界8か国で翻訳出版されている。著書に『昭和二十年夏、僕は兵士だった』、『狂うひと 「死の棘」の妻・島尾ミホ』(読売文学賞、芸術選奨文部科学大臣賞、講談社ノンフィクション賞受賞)、『原民喜 死と愛と孤独の肖像』、『この父ありて 娘たちの歳月』などがある。

「2023年 『サガレン 樺太/サハリン 境界を旅する』 で使われていた紹介文から引用しています。」

梯久美子の作品

  • 話題の本に出会えて、蔵書管理を手軽にできる!ブクログのアプリ AppStoreからダウンロード GooglePlayで手に入れよう
ツイートする
×