- Amazon.co.jp ・本 (377ページ)
- / ISBN・EAN: 9784101356167
作品紹介・あらすじ
根津権現近くの下宿に住まう雑誌記者の私は、恋人も出来ず、長患いの骨髄炎を治す金もない自らの不遇に、恨みを募らす毎日だ。そんな私に届いた同郷の友人岡田徳次郎急死の報。互いの困窮を知る岡田は、念願かない女中との交際を始めたばかりだったのだが-。貧困に自由を奪われる、大正期の上京青年の夢と失墜を描く、短くも凄絶な生涯を送った私小説家の代表作。
感想・レビュー・書評
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著者は、貧苦と病苦の果てに芝公園で凍死体となって発見された、大正期の私小説作家。
というより、“西村賢太が心酔して「没後弟子」を名乗り、作品の中でくり返し言及している作家”といったほうが通りがよいか。
私もご多分に漏れず、西村作品でこの人を知った。「忘れられた作家」の代表作が突如復刊されたのも、西村が芥川賞を受賞して注目を浴びたからこそである。
私も西村ファンだからこそ手を伸ばしてみたわけだが……うーん、これは正月に読むべき小説ではなかった(笑)。
西村作品を愛読している者なら、類似点はそこかしこに見つかるだろう。
「慊い(あきたりない)」「結句」「どうで」などという古めかしい言葉遣い(清造は生前から「文体が古臭い」と評されていたそうだ)とか、「自分で自分を蹴殺してしまいたいと思うほど」なんて表現とか……。
だが、西村作品のような面白さを本作に求めると、思いっきり肩透かしを食う。
西村の私小説はあれでけっこうサービス精神に富んでいて、エンタメ的側面もあるのだが、本作にはそれが皆無に等しい。「西村作品から娯楽的要素を削ぎ落としたような小説」――そんな印象を受けた。
文庫解説も当然西村が書いていて、彼はその中で、本作が「陰鬱なだけの小説」と評されてきたことに強く反発している。
西村によれば、本作の人物配置や会話の間合いなどは「落語のスタイルを強く意図」したもので、台詞の言い回しや地の文にも「粋なギャグが盛り込まれている」という。つまり、隠し味となっている笑いの要素を見逃がし、「陰鬱なだけの作品」ととらえる読者は読みが浅い、と彼は言うのだ。
清造に対する思い入れはないから私の読みも浅いのかもしれないが、西村が言うような笑いや「粋なギャグ」は、私には感じ取れなかった。わずかに、次のような主人公の台詞に、西村作品に通じる諧謔を感じた程度。
《「おい、後生だから、泣くことだけは止してくれ。第一朝っぱらから、縁喜でもないじゃないか。それとも君は、泣かなきゃ飯がうまくないなら、何処か原っぱへでも行って泣くんだなあ。そうだ。太田ケ原へでも行って、蝉と一緒に泣きっこでもするんだなあ。」》
作品全体は、陰々滅々とした私小説でしかないと感じた。たとえば、次のような一節が全体のトーンを象徴している。
《私の過去二十四年間は、貧苦と病苦とに織りなされた上を、血と涙とで塗りかためられていた。だから私には、教育らしい教育も与えられていなかった。と云っても好かった。反対に私には貧しき者が当然負わなければならない、猜疑、嫉妬のみが、多分に加えられていた。恐らくは今後も、それがいやが上にも加えられて行くことだろう》
没後弟子の西村にはみじめな自分を客観視して笑い飛ばす視点があるが、本作にはそれが感じられなかった。
主人公の親友が脳病院(精神病院)の便所で縊死を遂げる事件が物語の中心に据えられ、自殺に至る経緯の謎解きがなされていくのだが、ミステリのような意外性があるわけでもなく、展開も間延びしていて、なんともつまらない小説。
西村賢太がこの作家に深く心酔している理由が、本作を読んでもさっぱりわからなかった。 -
小説の柱となっているのは友人の自殺と貧しさ。殉後弟子である西村賢太の作品を読み慣れている人にはお馴染みのあの独特な文体で己の貧しさやあきたらなさについて滔々と描かれている。解説にもあったけれどそういう良くも悪くも自然主義的な特徴を多分に備えた作品として読んでいたけれど、最終章ですべてのアイテムが回収されているのと、あとやはり構成も巧みだと感じた。あの岡田の反復はどうだろうなどと思いながら読んではいたけど、結果として当然必要な反復であったわけで。省略になれている現代の小説読者からみると些か奇異に映るかもしれない。
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西村賢太作品を読み進むにつれて、彼に多大な影響を与えた藤澤清造の小説を読みたくなって手にとった本。この「忘れ去られた作品」が今になって復刊されたきっかけはもちろん西村であり、文庫の解説や注釈も彼が手がけている。
実は読み始めたものの、最初の三分の1ぐらいは、なんだかまどろっこしいというか、いっこうに物語がはじまらないような気がしてあまり乗り切れず、何度も途中で放り投げていた。
小説が俄然勢いを増すのは、友人岡田の死あたりからだ。岡田の兄に向かって彼の死までのいきさつを説明するシーンは恐ろしく長く、壊れたレコードのように長く何度も同じような話を繰り返すところなどほとんど「芸」といってもいい狂気を孕んでおり、語り手の意識の流れには思わず笑ってしまう記述も多く、そのあたりは西村作品と通ずるものがあった。
ただ、西村作品に比べると、話の進み方もおどろくほど遅く、また本筋と関係のなさそうな文章も多くて、決して読みやすくはない。しかし、不器用な印象を受ける長く寄り道の多い文章には、確かに誰にも似ていないリアルがあるように思った。 -
多くの方と同様に、西村賢太作品からの繋がりで読んだ。
百年前の作品の割に文体としては読み辛くはないかな、と思ったが、巻末の解説によれば、発表当時から『古めかしい文体』という評価だったそう。
内容に関しては、友人の自死と自分の貧乏と病気、という救いのない陰気極まり内容だが、心の動き自体は現代人と大差なく、テクノロジーと社会の生産性以外のところでは人間の営みは延々同じことを繰り返しているのだなあ、と思った。 -
ある種の潔癖症で、誰に対しても悪者にはなりたくない
いつまでも中庸でありつづけたい
つまりモラトリアム…要するに無責任な立場にしがみついている
しかし無責任ゆえの不用意さで失言を発するわ
潔癖症ゆえの馬鹿正直さで自分の立場を危うくするわ
不安のあまりに「許す」の一言を強要して言質をとろうとした挙げ句
なんも関係ない友人のところに泣きついて
ホモとノンケの悲惨な愁嘆場みたいに無益な言い争いを繰り広げるわで
まったくろくでもない野郎なんだ
しかしまあ、世間じゃわりによくある青春の1コマなのかもしれない
死ぬこたあないと思う
けれども、カネの無い男が出世するには、一つの疵も命とりなのだ
そんなふうに思い詰めておかしくなっていく
これだけのものを書きながら、永らく忘れられた作家であったのは
誰もが我が身に覚えある類の醜さをストレートに出したことに加え
学歴偏重主義に批判を加えたことも大きかったのだろう
しかしそれにしても長すぎるというか
女のエピソードや終盤の内省的な部分はもっと短くできたんじゃないか -
☆3つ。
もうなんだかづいぶんと長い間この本を読んでいる事になった。一ヶ月以上グズグズと読んでいたかなあ。独特の表現文体と存外ありきたりな物語なので、めちゃおもしろい!とはいかなかった。でも昔の東京の情景が描かれているところに少し興味が持てた。
わたしだって、もちろん風俗通い芥川賞作家西村賢太の影響でこの本を読んだのです。西村賢太の作品はすごく特徴のある語り口をしている・・・と思っていたら、なぁんだ何のことは無い、この『根津権現裏』の話法そのまんま真似っこではないかい。
慊りない(アキタリナイ:途中で「飽き足りない」に変化している。たぶん意図あり)とか、直ぐと感じて、などなどそのまんまだし。でも最初はなんでもまずは模倣から始まるのだから、まいっか。しかし、塵芥賞後もづっとそのまんまなのね。そこから次にはきっと自分独自の文体を作り上げていこうか、という風な気概は無いのだろうかなぁ。ま、とりあえづ風俗行ってからかなw。すまぬ。 -
何もかもが悲しい。→金があれば解決する。→とにかく金が欲しい!→だが貧乏になる宿命なのだ(その証拠がこの足だ)。→何もかもが悲しい。→(エンドレス)
という負の循環思考回路をもつ、非生産的な主人公。読む人によっては、数頁で嫌気が差すだろう。
シュンペーターの創造的破壊よろしく、この思考回路を打ち破るのは精神的イノベーションである。親友・岡田の死は、最大のチャンスでもあった。しかし、それは失敗に終わった。「私」が説く自殺反対論や貧困脱出法は、結局のところ空理空論にすぎなかったのである。それゆえ、同じ思考回路に留まったままであった。「私」の将来は岡田のそれと同様、質的には悲惨なものになるだろうと暗示されている。
これは、藤澤清造の私小説である。藤澤氏の体験・考えをそのまま小説に投影している。そのため、話の展開が遅く読みにくい。その反面、「私」の考えが機微に記されているので同調しやすい。西村賢太氏が惹かれたのは、このためでもありそうだ。 -
先頃、芥川賞を受賞した西村賢太が最も影響を受けた私小説作家、藤澤清造の長編。西村は私費を投じて藤澤の全集刊行を期しているというだけあって、なるほどモチーフや文体はよく似ている。しかし、西村のほうが同時代性及び「自己」のキャラクター掘り下げにおいて一歩鋭い。加えて、西村が芥川賞を受賞しなければ、本書が世に出ることもおそらくなかったわけで、これは「出藍の誉れ」ってことでしょうな。西村の次作が楽しみでありんす。