- Amazon.co.jp ・本 (412ページ)
- / ISBN・EAN: 9784101489117
感想・レビュー・書評
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本格的なしっかりとした内容の本。面白く読めた。体系的に仏教を勉強したことはないが,個人的な趣味で仏教関連の本をちまちま読んでいる程度の知識レベルの人間がちゃんと勉強を進めていくとっかかりにはとても良い本。
思想的なアプローチというタイトルの通り,単純に歴史的事実を述べるだけでなく,その背景となった時代的背景,当時の問題意識などが概説されているのが興味深い。
聖徳太子時代の仏教の需要と統制のための組み込み,そして経典研究南都六宗。そこからの最澄の天台宗と密教との繋がり・空海の真言宗と本覚思想の発展と鎌倉仏教の発展・臨済禅の武家との繋がり,近世の檀家での統制。
中でも経典の受容・本覚思想と土着の問題について日本特有の風俗・民俗の観点での考察が紙面を割いて展開されている。
何故現在まで葬式仏教がこれほどまでに受け継がれてきているのか,という考察の中でアラタマの概念が出てきたのはなるほどなぁと。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
実家も婚家も檀家にはなっているので、子どものころから何となく見聞きするのが仏教なのだけれど、かといって深く理解したことなど一度もない。
どういうわけか、一度は勉強してみるかな、という気を起こして本書を読んだわけだが、一度読んだだけでは十分に理解したとも思えない。
そんな状態ではあるが、本書で印象的だったのは、本覚思想が日本の仏教にとって大きな力を持ってきたということ。
あとは、日本の仏教が、本家のインドから漢訳を通して、多くの媒介を伴うものであるがゆえの複雑さだろうか。
親鸞の漢籍の解釈が少しだけ紹介されていたけれど、なんと融通無碍というか、自由な解釈が許されてきたものかと驚いた。
また、本書で初めて日本の仏教研究の難しさも知った。
宗教者が研究者となるケースは知っているが、その有利な点があると同時に、どうしても自分の属する宗派が中心になり、学問としての限界にもつながることがあるとのことだった。
研究には歴史学者(特に東洋史)や、時には民俗学者とも共同することが必要だという。
民俗学が関わるべきだというのは、「葬式仏教」としてであれ、人々の間でどういう存在であるかは民俗学の力に期待されるからだそうだ。
たしかに、学際的になることで研究の水準が上がってくるのだろうと思った。
最初のところで指摘されていたことも面白かった。
仏教は無を説く。
本場のインドで仏教が廃れてしまったのは無を追究する宗教だったからではないのか、と。
そして、東アジアに広がって、祖先崇拝と仏教が習合することで、世代を超えて残るものとなったというのだ。
何となく納得してしまったのだが、世界史の授業で習ったことなどが、本当にただそれぞれ断片的に頭の中にあるだけだったのだなあ、と気づかされた。 -
橋本治さんの解説に感動しました。
やはり仏教と言うと難しい。でもそれは、日本の日本人の特性かもしれない。仏教が入ってきて、これまでの変化を、たくさんの文献のもと丁寧に歴史に沿って書いてくださる。
僕自身も仏教に興味がありましたが、改めて「唯識」に興味があると認識しました。それはこの本が日本の仏教の流れを思想史として表してくれたおかげです。
そしてこの本を教わったのは中田敦彦のYouTube大学です。
唯識を教わったのはPodcastのCOTNENRADIOです。
原作に勝るものはありませんが、原作をいろんな角度で面白くまた、分かりやすくしてくれる方がいることで原作を知るきっかけになる。
それもまた歴史であり、歴史に学ぶことで今と今からを観る目と思想が養われる。
本当に良い時代に生きていると感じますし、だからこそ僕のため、世のための行いがしたいと思うばかりです。 -
原点のインド仏教は一度絶滅しており過去のもの。一方、日本仏教は生きており、宗派は真言宗・天台宗・浄土宗・浄土真宗・曹洞宗・臨済宗・日蓮宗・時宗等に分かれ、多様性がある。しかも日本仏教は中国・朝鮮を経由して伝来したが、日本に土着する際にも内容が変容している。日本人は独自の解釈で教えを曲げてしまう。日本は怖しい沼地である(遠藤周作「沈黙」)。
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本覚思想がなぜモメる思想なのか、モメつつもなぜ日本で出現した思想なのか、という話が中盤に出てくる。本覚思想は、初期仏教からみると「どうしてそうなった……」的な発想を含む。ただ、本覚思想みたいな考えが一度出たところからその後に日本的仏教思想が独自のツイストを効かせてゆく、そのあたりの概説をしてくれていた。
注釈が比較的丁寧で、教科書的な用途にも便利。仏教専門書のフリをした日本人論。 -
2015.5記。
日本における仏教の受容及び変容を巡る興味深い通史。長いです、ご関心あれば・・・。
まず、日本で仏教史上の画期と言えば鎌倉新仏教、ということになっているが、著者は「天台・真言」における学説としての高度化が出発点である、という立場。
では比叡山で営々と築かれてきた学問が目指したものは何か。私の大雑把な理解では、正当性と統一性への希求ということになる。すなわち、膨大な仏典に残された矛盾だらけの記載、教義を体系化し、大日如来を頂点とする統一理論に組み上げていく営み。これらを通じて西洋における神学とも比肩しうる壮大な論理と知の体系が形作られているのである。
中国において、サンスクリットで書かれた仏典の漢語訳は大変な労苦を伴った。一方我が国は漢字をそのまま読めた上、送り仮名を振ってそのまま日本語読みしてしまう「訓読」という技を編み出した。これが日本における仏典研究の独自の展開に大きな役割を果たした。
こうした過程をへて日本独自に仏教を消化した結果が本覚思想である。大雑把に言えば「草木一本に至るまでみな仏である」という、自然を慈しみ万物に霊力を感受する日本独特の思考形態。ある種の尊さも感じるが、「そこにあるだけで既に仏」という考え方は仏教本来の思想との関係でどうなのか?という批判も当然でてくる。
ポイントは「菩提心」(悟りを求める心)。これなくしては仏教の根本が成り立たないのでは、というもの。「菩提心」をめぐる鎌倉期の論争は本書を通じても最も読ませる部分であった。
総じて難解な本。それでもなお、高校レベルの歴史の知識と仏教の思想としての側面が絡み合い何かがそそり立ってくる感覚を存分に味わうことができた。その一点において、極めて有意義な読書体験であった。 -
「日本仏教史」と銘打ってはいるが、明治維新以降についてはほとんど言及していないので、事実上「前近代日本仏教思想史」である。この種の本としてはかなりわかりやすく、註や文献案内が充実しているので、日本の仏教受容過程・変容過程を学ぶ入門書として最適だろう。