- Amazon.co.jp ・本 (285ページ)
- / ISBN・EAN: 9784102057032
感想・レビュー・書評
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グラース家の長男シーモアに関する二篇。どちらも次兄バディによる手記で、シーモアに対する親愛を至るところに感じることができます。
『ナイン・ストーリーズ』『フラニーとズーイー』に続く三部作目なので、他の二作品を読んだ後に本書を手に取った方がシーモアの魅力がより増します。
『大工よ、屋根の梁を高く上げよ』
妹ブーブーからシーモアが結婚することを聞いたバディは、ブーブーの依頼(という名の指示)もありどうにか時間を繕って式へ赴く。しかしシーモアは自身の結婚式当日に「幸せすぎる」という理由で現れなかった。
舞台はおおよそ車内とアパートの一室という限られた空間。新婦側親族のシーモアへの(当然の)辛辣な批判を中心に、まるで演劇を見ているように全ての登場人物が終始生き生きとコミカルに映ります。シーモア本人は登場しない中、会話の流れやバディとブーブーのやりとり、残された日記などを通してシーモアという人間像が徐々に浮き彫りになります。単発の読み物としても十分楽しめる、グラース家の魅力が光る作品です。
ささやかな1コマですが、ご老人の“Delighted(喜んで)”の下りはつい頬が緩んでしまうくらい大好き。
『シーモア-序章』
シーモア亡き後にバディがシーモアについて思うことをつらつらと綴る。
特にストーリーもなくバディの一人語りなので読みにくさはありますが、グラース家の人々が無条件にシーモアを愛し多大な影響を受けていることが伝わる一篇です。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
感情のままに流される人を眺めながら、そんな人や世の中を逆手にとって自身の内面を高める生き方に、幾分救われた気持ちになる。期待してなどいなかったから。
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ナインストーリーズ、フラニーとズーイーに輪をかけてクセのある二編の短編集。饒舌な文章(名訳!)なのに不思議とすらすら読めてしまう。「大工よ〜」のラストの一文が秀逸で、何度読んでも惚れ惚れします。
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柴田元幸さん翻訳の「ナイン・ストーリーズ」を読み返していたら、
野崎孝さんの翻訳のが読みたくなって、交互に読んでいたら、
「大工よ、屋根の梁を高く上げよ」がどうしても読みたくなって読んだ。
ああ、忙し、忙し!
サリンジャーをはじめて読んだ10代の時は、
「サリンジャーとアーヴィングだけあれば、他に本いらない!」なんて
思い詰めていた時もあったなあ。
好きすぎて、
ほとんど誰ともサリンジャーの作品については話せなかった。
(弟と「ナイン・ストーリーズ」についてちょっと話すくらい)
最近になって、久しぶりにアーヴィングの「ガープの世界」を読んだときは
あまりの残酷さにのけぞり、
今回久しぶりに「シーモア -序章-」を読んで、
あんなにも心酔していたシーモアの事がちょっと面倒くさく感じた。
これが大人になると言うことかしらん。
シーモアの結婚式にやってきた弟バディ、
シーモアが式にやってこないと言うトラブルが発生し…
家まで来てくれたシルクハット紳士が心の支えだね。
この本で言えば、「シーモア -序章-」って、私には非常に読みづらく、
「大工よ…」ばっかり読んでいたけど、
今回は「シーモア」の方が色々私の為になることが書いてあった。
十分すぎるほど大人になって、
シーモア的生き方が最高とは思わなくなった私だけれど、
私にとって大事な本であることは変わりない。 -
この作品も折に触れ何度も何度も読み返している。私にとっての安定剤的な存在。読むたびにバーウィック夫人が好きになってしまう。
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だいじな自転車をありがとう
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サリンジャー作品で一番好き。バディがシーモアが原因で色んなことに巻き込まれても、ちゃんとずっとシーモアが好きで嬉しい。
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何度も読んだにも関わらず「シーモア序章」については感想らしきものを書けそうにないので、以下は「大工よ、屋根の梁を高く上げよ」のみを対象としたレビュー。
結論から言うと、めちゃくちゃ面白い。でも、かなり人を選ぶ。
サリンジャーならではの文章スタイルがこの作品の頃には完成系を迎えていて、初読時には迂遠に感じられるかもしれない(おまけに訳がそれに輪をかけている。そもそもサリンジャー作品を完璧に日本語訳するのは不可能だと思う)。
「大工よ~」におけるサリンジャーの文章スタイルについて述べると、言うべきことを具体的には言わず、示唆させるに留めるという感じ。
示唆というのは、例えば本来そこでその言葉を使うのはふさわしくねえんじゃねえかという表現をしてみることや、このタイミングでそれに触れる必要があるのかというような言及をすること。そうした違和感から、言外に滲み出ているニュアンスを汲み取ったり、伏線丹念に回収していったりすることが読者には求められる。
そういう風に時間を掛けてディテールにこだわって暗号を解読するように読んで初めて、本当に面白いと感じられる話じゃねえかと思う。
例えば、本文を読み進めていると、割りと唐突な形で何度も《この年は1942年だった》というようなフレーズを見掛ける。
この唐突なコピペ的一節は、それくらい1942年という年が合衆国社会にとって大きく不気味な意味をもつものであることを示しているのだろう。
主人公が自身の不可解で不自然な行動を《この年は1942年だったから》と説明しているあたりにその闇の深さを伺うことも出来ると思う。
(自身の思いを第二次世界大戦が最も激化した年号に代弁させるしかない人物の心情はどんなものか)
話の構成事態は決して複雑ではないし特段ドラマチックでもない。
第一人称人物バディ・グラースが、自身の兄の結婚式が開かれる予定だった一日を後日談的に回想したもの。婚礼を巡るドタバタから、ある種の教訓らしきものを見出だして終わる。
物語後半では神と人間、あるいは主客の問題など、宗教的であったり哲学的であったりする話題が頻発するようになる。読み進めるのに注意の必要な作品ではあるが、そこら辺の知識はなくても楽しめると思う。 -
「ナイン・ストーリーズ」、「フラニーとゾーイー」にも登場するグラース家の話。
グラース家の人々は皆大好きだけど、その中でも常に語られる立場である長兄シーモアの魅力は格別。
それにしても、回りくどい言い回しばかりで読みにくさ満点なので、それを覚悟のうえで読まないと辛いかも。